『野菜のお掃除』のことを書いていて、『野菜を洗う女の子』がいたことを思い出した。と言っても、友人の家にやってくる人たちとは全然違う世界の人のことだ。
ーーー
世の中には、信じられないことをする人がいる。しかし、そういう人たちは、ある日突然大人になって生まれてくる訳ではないから、どこか、僕たちの知らないところで、その人は、その人なりに当たり前のことと信じて、その信じられないことを続けてきているのだと思う。
ーーー
もう15年以上も前のことだが、僕が東京で会社勤めをしていた頃、同期入社した同僚たちで河原にバーベキューをしに出掛けたことがあった。
バーベキューを始めるために、みんなで分担して準備をしていた時のこと。女の子のひとりが、ずっと河原に座り込んで作業をしていた。そこで、ほかの仲間たちと一緒にようすを見に行くと、僕たちはおもわず絶句してしまった。女の子は、野菜に洗剤を直接かけて洗っていたのだった。「都会では、洗剤を使って野菜を洗う人がいる」と聞いていたのだが、それは、質の悪い冗談だと思っていた。
しかし、現実を目の当たりにすると、言葉を見失ってしまう。
川面には、女の子の足下にこぼれ落ちた洗剤から続く泡の筋ができていた。まもなく、女の子は、当たり前の顔をして自宅から持ってきたミネラルウォーターで洗剤を洗い流していた。周囲の人間が黙って見守っていたのではない。ひとつひとつの行程で止めようとする者もいたのだが、女の子は、いたって真面目だったので、言葉が空を滑っていった。
その後、僕たちは、洗剤で洗われた野菜を食べた。どんな味がしたのか、覚えていない。
女の子が結婚して子どもでも生まれていたら、その子どももずいぶんと大きくなっているはずだ。あの女の子は、自分の子供にも洗剤を使って野菜を洗うように教えているのだろうか?
ーーー
電車のつり革を除菌剤で消毒してからつかまる人がいる、という話が、世の中の話題になっていた頃の話ではなかっただろうか?
2005年11月27日日曜日
野菜のお掃除
この季節、日が暮れても畑での収穫作業が終わらないことは多い。
そして、冬場の野菜は、夏場の野菜と違って、そのひとつひとつが大きい。収穫された野菜を作業場に運び込むと、すぐに作業場がいっぱいになってしまう。文字通り、足の踏み場が無くなる。だから、作業場では、次に収穫された野菜が運び込まれてくるまでに、『野菜のお掃除』をして、スペースの確保をしなくてはならない。それができないときには、置き場がなくなった野菜が、作業場から表の道路まで続く路地に並ぶこととなる。
『野菜のお掃除』は、野菜の収穫と対になった作業だ。そして、野菜は鮮度が高いうちに出荷しなくてはならない。だから、収穫された野菜の、そのひとつひとつを丹念に『お掃除』する。これが、毎日のように繰り返される。本当に大変な作業だ。
ーーー
『野菜のお掃除』には、野菜の種類によって、いろいろな作業がある。
水を使って、野菜についた土を洗い流すこともあれば、水を一切使わずに、野菜を磨いたりすることもある。野菜の種類によって、『野菜のお掃除』は異なる。しかし、いずれの作業にしても、野菜のひとつひとつを手に取ってチェックする作業であることには変わりはない。だから、大量の野菜をお掃除は、とても根気がいる。単調な作業だが、この当たり前の作業が、安心して食べられるおいしい野菜づくりに欠かせない。
『野菜のお掃除』の一例を少しだけ書いてみよう。
ーーー
ホウレンソウや水菜などの葉野菜は、赤葉(あかば)、若葉(わかば)を取り除き、収穫の際に折れた葉っぱ、虫食いのある葉っぱを取り除く。そして、適当な量に束ねる。最後に、水洗いをして、土を洗い流す。
ーーー
赤葉とは、黄色くなってきたりして枯れてきた葉っぱのことである。こういう葉っぱは、見栄えも良くないし、食感も良くない。当然、取り去ってしまう。
若葉とは、双葉のようなものから、本葉であってもまだ未成熟な状態のものだ。若葉は、水分が豊富なために柔らかい。もし、機会があれば、ぜひ摘んで食べてみて欲しい。若葉は、おいしい。畑では、この若葉だけを狙って虫がつくことがある。虫も、何がおいしいかをよくわかっている。しかし、若葉は、土から抜くと直ぐに元気がなくなってしまう。その結果、腐ってしまう。だから、若葉は取り去ってしまう。もったいない、と思うこともあるが、食卓に届くまでに腐ってしまっては仕方が無いので、若葉は取り去るしかない。
ほかにも、収穫の際に折れた葉っぱ、虫食いのある葉っぱを取り除く。
折れてしまった葉っぱは、折れた箇所から腐ってしまいやすいので取り除く。
一方、虫食いのある葉っぱを取り去るのは、単にイメージの問題からだ。少なくとも、友人の家では、虫食いの葉っぱは、目立つものだけを取り除くようにしている。(実は、こうした野菜のイメージに関わる事柄については、いろいろ書きたいことがある。だから、近いうちに機会を見つけて書こうと思う。)
ーーー
赤葉、若葉、折れた葉っぱ、虫食いが目立つ葉っぱをどんどん取り去っていった後には、ずいぶんと痩せっぽちになった野菜を手にしていることがある。そういう時は、別の野菜のお掃除をして、それと一緒にして適当な量の束をつくる。
ーーー
とまあ、葉野菜のお掃除についてざっと書いてみたのだが、どんな感じだろうか?
友人の家では、こうした作業が、ほぼ毎日のように繰り返されている。そして、その作業は、深夜に及ぶこともよくあることだ。
おいしい野菜は、かくしてつくられる。
そして、冬場の野菜は、夏場の野菜と違って、そのひとつひとつが大きい。収穫された野菜を作業場に運び込むと、すぐに作業場がいっぱいになってしまう。文字通り、足の踏み場が無くなる。だから、作業場では、次に収穫された野菜が運び込まれてくるまでに、『野菜のお掃除』をして、スペースの確保をしなくてはならない。それができないときには、置き場がなくなった野菜が、作業場から表の道路まで続く路地に並ぶこととなる。
『野菜のお掃除』は、野菜の収穫と対になった作業だ。そして、野菜は鮮度が高いうちに出荷しなくてはならない。だから、収穫された野菜の、そのひとつひとつを丹念に『お掃除』する。これが、毎日のように繰り返される。本当に大変な作業だ。
ーーー
『野菜のお掃除』には、野菜の種類によって、いろいろな作業がある。
水を使って、野菜についた土を洗い流すこともあれば、水を一切使わずに、野菜を磨いたりすることもある。野菜の種類によって、『野菜のお掃除』は異なる。しかし、いずれの作業にしても、野菜のひとつひとつを手に取ってチェックする作業であることには変わりはない。だから、大量の野菜をお掃除は、とても根気がいる。単調な作業だが、この当たり前の作業が、安心して食べられるおいしい野菜づくりに欠かせない。
『野菜のお掃除』の一例を少しだけ書いてみよう。
ーーー
ホウレンソウや水菜などの葉野菜は、赤葉(あかば)、若葉(わかば)を取り除き、収穫の際に折れた葉っぱ、虫食いのある葉っぱを取り除く。そして、適当な量に束ねる。最後に、水洗いをして、土を洗い流す。
ーーー
赤葉とは、黄色くなってきたりして枯れてきた葉っぱのことである。こういう葉っぱは、見栄えも良くないし、食感も良くない。当然、取り去ってしまう。
若葉とは、双葉のようなものから、本葉であってもまだ未成熟な状態のものだ。若葉は、水分が豊富なために柔らかい。もし、機会があれば、ぜひ摘んで食べてみて欲しい。若葉は、おいしい。畑では、この若葉だけを狙って虫がつくことがある。虫も、何がおいしいかをよくわかっている。しかし、若葉は、土から抜くと直ぐに元気がなくなってしまう。その結果、腐ってしまう。だから、若葉は取り去ってしまう。もったいない、と思うこともあるが、食卓に届くまでに腐ってしまっては仕方が無いので、若葉は取り去るしかない。
ほかにも、収穫の際に折れた葉っぱ、虫食いのある葉っぱを取り除く。
折れてしまった葉っぱは、折れた箇所から腐ってしまいやすいので取り除く。
一方、虫食いのある葉っぱを取り去るのは、単にイメージの問題からだ。少なくとも、友人の家では、虫食いの葉っぱは、目立つものだけを取り除くようにしている。(実は、こうした野菜のイメージに関わる事柄については、いろいろ書きたいことがある。だから、近いうちに機会を見つけて書こうと思う。)
ーーー
赤葉、若葉、折れた葉っぱ、虫食いが目立つ葉っぱをどんどん取り去っていった後には、ずいぶんと痩せっぽちになった野菜を手にしていることがある。そういう時は、別の野菜のお掃除をして、それと一緒にして適当な量の束をつくる。
ーーー
とまあ、葉野菜のお掃除についてざっと書いてみたのだが、どんな感じだろうか?
友人の家では、こうした作業が、ほぼ毎日のように繰り返されている。そして、その作業は、深夜に及ぶこともよくあることだ。
おいしい野菜は、かくしてつくられる。
犬の落とし物(番外編)
僕の家の前では、しばしば、犬の落とし物が見つかる。
この落とし物は、こどもの頃からずいぶんと見かけるが、家を出てすぐ前にあったりすると、ガックリくる。しかも、道の真ん中だから、グッと重くなる。かくして、お掃除が粛々と執り行われる。
ーーー
僕の家は、砂利石が転がる道に面して建っている。道幅にして、軽自動車がなんとか通れる程度なので、この道の奥にある住宅に住む人たちも、車を使う時には、この道を通ることはまずない。車を使う時には、アスファルトで舗装された別の道を使うようだ。
この道は長さにして50m足らず。道沿いには、友人のビニールハウスがある。ときたま、友人の農作業のために道が塞がれることもあるが、車の往来を気にする必要はまずない。ビニールハウスにある作物を眺めながら、のんびりと散歩気分をたのしむにはちょうど良い道なのだ。
こういうこともあって、家の前を通って街道に抜ける人は、この道の真ん中をのんびりと歩いている。だから、なおさら、この落とし物には困るのだ。
ーーー
そう言えば、野良犬をなかなか見かけなくなった。昔は、ちょっと歩いているだけで野良犬を見かけたが、最近は、本当に見かけなくい。保健所の取り締まりが厳しいのか、地域による違いなのか。まあ、野良犬の減ったのなら良いことだ。もっとも、厄介なのは、お犬さまたちの落とし物だ。
ーーー
しかし、飼い主たちのマナーは、どうなっているのだろう?
僕の見る限り、家の前を犬を連れて通る人は、袋とはさみをセットにして持ち歩いている。特に、比較的若い人たちには、このマナーが守られているように思う。文字にすると陰口をしているようだが、お年寄りが子犬を連れて歩いているときは、どうも怪しい。子犬は、道すがら、何度となく腰を落とした仕草を見せるが、お年寄りの中には、わざとなのか、それには目もくれないようにしている。
うーん。
ーーー
ペットを飼うな、とは言わないが、ペットを飼うなら、自分のペットたちに向けられる目線を自分に向けられる目線と同じように感じてほしい、と思う。
ーーー
こどもの頃、畑のあぜ道などは、落とし物が見つかる格好の場所だった。ちょっと気を抜いて歩いていると、靴の裏からなんとも言えぬ感覚が伝わってきた。その直後に野良犬を見つけると、腹立たしくなった。野良犬は、好き勝手なところを歩いて、ところ構わず落とし物をしていくのだ。
アスファルトに舗装された車が行き交う道では、落とし物が道の真ん中に落ちていることはまずない。あるとすれば、電柱などの陰になったところ。それも、人が歩く道の端あたりだ。
このように考えていくと、どうも落とし物の主は、人と一緒に行動している。人が道の端を歩けば、落とし物は、道の端にある。そして、人が道の真ん中を歩けば、落とし物は、道の真ん中にある。
ーーー
さてさて。どうしたものか。
落とし物だけに落とし主がいるならば、届けるべきなのだろうか?
この落とし物は、こどもの頃からずいぶんと見かけるが、家を出てすぐ前にあったりすると、ガックリくる。しかも、道の真ん中だから、グッと重くなる。かくして、お掃除が粛々と執り行われる。
ーーー
僕の家は、砂利石が転がる道に面して建っている。道幅にして、軽自動車がなんとか通れる程度なので、この道の奥にある住宅に住む人たちも、車を使う時には、この道を通ることはまずない。車を使う時には、アスファルトで舗装された別の道を使うようだ。
この道は長さにして50m足らず。道沿いには、友人のビニールハウスがある。ときたま、友人の農作業のために道が塞がれることもあるが、車の往来を気にする必要はまずない。ビニールハウスにある作物を眺めながら、のんびりと散歩気分をたのしむにはちょうど良い道なのだ。
こういうこともあって、家の前を通って街道に抜ける人は、この道の真ん中をのんびりと歩いている。だから、なおさら、この落とし物には困るのだ。
ーーー
そう言えば、野良犬をなかなか見かけなくなった。昔は、ちょっと歩いているだけで野良犬を見かけたが、最近は、本当に見かけなくい。保健所の取り締まりが厳しいのか、地域による違いなのか。まあ、野良犬の減ったのなら良いことだ。もっとも、厄介なのは、お犬さまたちの落とし物だ。
ーーー
しかし、飼い主たちのマナーは、どうなっているのだろう?
僕の見る限り、家の前を犬を連れて通る人は、袋とはさみをセットにして持ち歩いている。特に、比較的若い人たちには、このマナーが守られているように思う。文字にすると陰口をしているようだが、お年寄りが子犬を連れて歩いているときは、どうも怪しい。子犬は、道すがら、何度となく腰を落とした仕草を見せるが、お年寄りの中には、わざとなのか、それには目もくれないようにしている。
うーん。
ーーー
ペットを飼うな、とは言わないが、ペットを飼うなら、自分のペットたちに向けられる目線を自分に向けられる目線と同じように感じてほしい、と思う。
ーーー
こどもの頃、畑のあぜ道などは、落とし物が見つかる格好の場所だった。ちょっと気を抜いて歩いていると、靴の裏からなんとも言えぬ感覚が伝わってきた。その直後に野良犬を見つけると、腹立たしくなった。野良犬は、好き勝手なところを歩いて、ところ構わず落とし物をしていくのだ。
アスファルトに舗装された車が行き交う道では、落とし物が道の真ん中に落ちていることはまずない。あるとすれば、電柱などの陰になったところ。それも、人が歩く道の端あたりだ。
このように考えていくと、どうも落とし物の主は、人と一緒に行動している。人が道の端を歩けば、落とし物は、道の端にある。そして、人が道の真ん中を歩けば、落とし物は、道の真ん中にある。
ーーー
さてさて。どうしたものか。
落とし物だけに落とし主がいるならば、届けるべきなのだろうか?
2005年11月26日土曜日
安全な野菜
友人と一緒に畑へ向かう車の中は、いろいろな話題で盛り上がる。
友人に、このブログに書いたトマトのハイテク農場のことを話したら、友人は、こんな話をしてくれた。
ーーー
使わなくなったトンネルを使って、レタス栽培が行われている。太陽の代わりに照明設備を使ってレタスを栽培するのだ。土に覆われたトンネルならば、密閉された状態だから温度変化も少ないし、害虫も入ってこれない。
ーーー
なるほど。と、感心して聞いていると、友人は、どうもこの一件が気に入らないらしい。
太陽、雨、風、そして、さまざまな自然の恵みによって育まれた土など、自然の風土で育まれる野菜は、友人にとってはなによりもかけがえのない野菜なのだ。
ーーー
僕は、この友人の考え方に強い共感を覚える。
人工的な環境とは、人間にとって都合の良い要素だけを自然から隔離した環境だ。ところが、人間は、いまだに自然の環境を複製する技術を持っていない。
照明設備の光は、見た目には、太陽の光とよく似ている。しかし、赤外線や紫外線などを含めて人間の目に見えない光は、太陽の光に含まれていても、照明設備の光にはほとんど含まれていない。ところが、こうした人間の目に見えない光が、植物の生長に大きな影響を与えていたりする。また、人間の目に見える光であっても、人間は、その光が、どの植物にどんな影響を与えるか、をわかっているとは言えない。
たとえば、植物に緑色が多いのは、植物が光合成する上で必要な光を効率よく吸収するためだという。では、なぜすべての植物が同じ色をしていないのだろう?微妙な色の違いは、それぞれの植物が取り入れようとする光の成分が異なることを意味しているのではないだろうか?
このように考えてみると、人工的に作り出される環境は、自然なものとはほど遠い。
「人工的に作り出される環境のなかで育まれた野菜」と「自然の恵みのなかで育まれた野菜」を比較することをほんとうの野菜同士の比較と同じように議論してはいけないし、するべきではないと思う。形はそっくりでも、自然と異なる環境で育てられれば、出来上がったものに含まれるものも自ずと異なってくるはずだ。
さまざまな生物の遺伝子操作が問題視されていることを考えれば、こうした人工的な環境で育てられる野菜があまり問題にならないのは、不思議だ。生物は、環境の変化に対応しながら進化を遂げ、種を保存してきた。トンネルの中で育てられる野菜も、交配を行えば、まもなく進化を遂げるだろう。それは、我々の概念を変えるような食物への進化となるかもしれない。
しかし、トンネル栽培に特化した植物が栽培されてきた、という話は聞いたことがない。もちろん、冒頭ののトンネル栽培で、どんな苗が使われているか、は定かでない。しかし、一般に市場に流通している苗を使って栽培しているのであれば、少し背筋が寒くなってくる。
ーーー
利潤や効率化が求められて建築されたマンションには、倒壊する危険性がある、と言う。
トンネルで栽培された野菜には、どんな危険性があるんだろう?
友人に、このブログに書いたトマトのハイテク農場のことを話したら、友人は、こんな話をしてくれた。
ーーー
使わなくなったトンネルを使って、レタス栽培が行われている。太陽の代わりに照明設備を使ってレタスを栽培するのだ。土に覆われたトンネルならば、密閉された状態だから温度変化も少ないし、害虫も入ってこれない。
ーーー
なるほど。と、感心して聞いていると、友人は、どうもこの一件が気に入らないらしい。
太陽、雨、風、そして、さまざまな自然の恵みによって育まれた土など、自然の風土で育まれる野菜は、友人にとってはなによりもかけがえのない野菜なのだ。
ーーー
僕は、この友人の考え方に強い共感を覚える。
人工的な環境とは、人間にとって都合の良い要素だけを自然から隔離した環境だ。ところが、人間は、いまだに自然の環境を複製する技術を持っていない。
照明設備の光は、見た目には、太陽の光とよく似ている。しかし、赤外線や紫外線などを含めて人間の目に見えない光は、太陽の光に含まれていても、照明設備の光にはほとんど含まれていない。ところが、こうした人間の目に見えない光が、植物の生長に大きな影響を与えていたりする。また、人間の目に見える光であっても、人間は、その光が、どの植物にどんな影響を与えるか、をわかっているとは言えない。
たとえば、植物に緑色が多いのは、植物が光合成する上で必要な光を効率よく吸収するためだという。では、なぜすべての植物が同じ色をしていないのだろう?微妙な色の違いは、それぞれの植物が取り入れようとする光の成分が異なることを意味しているのではないだろうか?
このように考えてみると、人工的に作り出される環境は、自然なものとはほど遠い。
「人工的に作り出される環境のなかで育まれた野菜」と「自然の恵みのなかで育まれた野菜」を比較することをほんとうの野菜同士の比較と同じように議論してはいけないし、するべきではないと思う。形はそっくりでも、自然と異なる環境で育てられれば、出来上がったものに含まれるものも自ずと異なってくるはずだ。
さまざまな生物の遺伝子操作が問題視されていることを考えれば、こうした人工的な環境で育てられる野菜があまり問題にならないのは、不思議だ。生物は、環境の変化に対応しながら進化を遂げ、種を保存してきた。トンネルの中で育てられる野菜も、交配を行えば、まもなく進化を遂げるだろう。それは、我々の概念を変えるような食物への進化となるかもしれない。
しかし、トンネル栽培に特化した植物が栽培されてきた、という話は聞いたことがない。もちろん、冒頭ののトンネル栽培で、どんな苗が使われているか、は定かでない。しかし、一般に市場に流通している苗を使って栽培しているのであれば、少し背筋が寒くなってくる。
ーーー
利潤や効率化が求められて建築されたマンションには、倒壊する危険性がある、と言う。
トンネルで栽培された野菜には、どんな危険性があるんだろう?
2005年11月25日金曜日
大きな白菜
今日は、夕方から友人の手伝いで、畑に行った。
車で1時間くらいの場所にある畑で、晩秋の紅葉を楽しみながらの移動だ。
これは、これで楽しい。
出掛けるのが遅くなった分、畑に着く頃には、すっかり日が落ちてしまっていた。僕たちは、ヘッドライトを点けて、暗がりの中で作業をする。
友人の畑仕事を手伝い始めた頃は、こんな暗がりに作業をすることそのものが驚きだったが、今では、すっかり当たり前の風情になった。「太陽が昇ると仕事を始め、沈むと仕事が終わる・・・」そんな発想は、友人にはないらしい。
ーーー
友人が白菜の収穫をしている傍らで、僕は、畑に散乱した葉っぱなどを集めて回った。暗闇の中では、ライトを点けていても、なんとなく手探りの状態になる。
集めた葉っぱは、大きなプラスチィック製のカゴに入れる。このカゴは、野菜収穫用のカゴと葉っぱなどの畑のゴミ収集用のカゴと使い分けているが、基本的には同じものだ。カゴに野菜を入れて、ほぼいっぱいに入れた状態だと、大人がなんとか持って歩くことができるくらいの重さになる。
ちなみに、友人は、このカゴを「ネギカゴ」と呼んでいるが、葱の収穫に使う様子を僕は見たことがない。
ーーー
白菜は、畑では、大きな葉っぱを花のように広げている。お店に並ぶ白菜は、その広がった葉っぱの中心にある。だから、白菜の株は、収穫が終わると、真ん中がぽっかりと無くなった状態になっていて、丘に揚げられた大きなクラゲのようで情けない。
もっとも、暗闇の中では、畑の畝に葉っぱが敷き詰められたようにしか見えない。そのうえ、一度乾燥してしまった白菜が夜露に濡れて、白菜の甘い匂いがする。見えにくい分、嗅覚が敏感になっているのだろうか?
ーーー
寒いだろう、と思って少し多めに着込んできたが、1枚ずつ服を脱いでいくうちに、結局いつものトレーニング・ウェア姿になってしまった。
トレーニング・ウェアは、サッカー練習用でもあり、畑の作業着ともなっている。丈夫で、汚れても平気で、そして、意外なことに薄いのに温かく感じる。保温性が優れているのだと思う。余談だが、ナイキやアディダスといったメーカーには、ここに大きな市場があることに気がついて欲しい、と思う。
ーーー
友人が、暗闇の中でぶつぶつ言っている。
「白菜が、大きすぎる・・・」
友人に言っても、仕方ないが心の中でつぶやいてみる。
「あんたが作ったんでしょうが・・・」
友人の作る白菜は、そのひとつひとつがとても重い。たくさんの水分を含んでいるので、葉っぱも分厚い。
ーーー
友人の様子を見に行くと、ネギカゴの中にあったのは、8つ。スーパーで売っている大きさの白菜だったら、12個くらいは余裕で入るはずなのだが、8つは、ネギカゴの中でぎっしりと収まっていた。
ーーー
結局、僕は、ネギカゴで14杯分の葉っぱを集めた。葉っぱを集めると言っても、ライトの中に照らし出された葉っぱを掴んではカゴに放り込む、という具合だから、すぐにカゴはいっぱいになる。かなりの量だ。
しかし、拾い集めた畑を見直してみると、たいした面積にはなっていない。
うーん。白菜そのものが大きいから、残った葉っぱも大きい、という訳か。うーん。
ーーー
友人が言った。「明日は、昼から来よう」
そう言って、僕たちは、小芋の収穫へと別の畑に向かっていった。
車で1時間くらいの場所にある畑で、晩秋の紅葉を楽しみながらの移動だ。
これは、これで楽しい。
出掛けるのが遅くなった分、畑に着く頃には、すっかり日が落ちてしまっていた。僕たちは、ヘッドライトを点けて、暗がりの中で作業をする。
友人の畑仕事を手伝い始めた頃は、こんな暗がりに作業をすることそのものが驚きだったが、今では、すっかり当たり前の風情になった。「太陽が昇ると仕事を始め、沈むと仕事が終わる・・・」そんな発想は、友人にはないらしい。
ーーー
友人が白菜の収穫をしている傍らで、僕は、畑に散乱した葉っぱなどを集めて回った。暗闇の中では、ライトを点けていても、なんとなく手探りの状態になる。
集めた葉っぱは、大きなプラスチィック製のカゴに入れる。このカゴは、野菜収穫用のカゴと葉っぱなどの畑のゴミ収集用のカゴと使い分けているが、基本的には同じものだ。カゴに野菜を入れて、ほぼいっぱいに入れた状態だと、大人がなんとか持って歩くことができるくらいの重さになる。
ちなみに、友人は、このカゴを「ネギカゴ」と呼んでいるが、葱の収穫に使う様子を僕は見たことがない。
ーーー
白菜は、畑では、大きな葉っぱを花のように広げている。お店に並ぶ白菜は、その広がった葉っぱの中心にある。だから、白菜の株は、収穫が終わると、真ん中がぽっかりと無くなった状態になっていて、丘に揚げられた大きなクラゲのようで情けない。
もっとも、暗闇の中では、畑の畝に葉っぱが敷き詰められたようにしか見えない。そのうえ、一度乾燥してしまった白菜が夜露に濡れて、白菜の甘い匂いがする。見えにくい分、嗅覚が敏感になっているのだろうか?
ーーー
寒いだろう、と思って少し多めに着込んできたが、1枚ずつ服を脱いでいくうちに、結局いつものトレーニング・ウェア姿になってしまった。
トレーニング・ウェアは、サッカー練習用でもあり、畑の作業着ともなっている。丈夫で、汚れても平気で、そして、意外なことに薄いのに温かく感じる。保温性が優れているのだと思う。余談だが、ナイキやアディダスといったメーカーには、ここに大きな市場があることに気がついて欲しい、と思う。
ーーー
友人が、暗闇の中でぶつぶつ言っている。
「白菜が、大きすぎる・・・」
友人に言っても、仕方ないが心の中でつぶやいてみる。
「あんたが作ったんでしょうが・・・」
友人の作る白菜は、そのひとつひとつがとても重い。たくさんの水分を含んでいるので、葉っぱも分厚い。
ーーー
友人の様子を見に行くと、ネギカゴの中にあったのは、8つ。スーパーで売っている大きさの白菜だったら、12個くらいは余裕で入るはずなのだが、8つは、ネギカゴの中でぎっしりと収まっていた。
ーーー
結局、僕は、ネギカゴで14杯分の葉っぱを集めた。葉っぱを集めると言っても、ライトの中に照らし出された葉っぱを掴んではカゴに放り込む、という具合だから、すぐにカゴはいっぱいになる。かなりの量だ。
しかし、拾い集めた畑を見直してみると、たいした面積にはなっていない。
うーん。白菜そのものが大きいから、残った葉っぱも大きい、という訳か。うーん。
ーーー
友人が言った。「明日は、昼から来よう」
そう言って、僕たちは、小芋の収穫へと別の畑に向かっていった。
2005年11月21日月曜日
おいしい水
友人の家では、井戸水を使って野菜を洗う。
冬場、野菜を洗うなどしていると、井戸水に浸かった手を外に出したくなくなる。ずっと水に浸けていたい。それほど、井戸水は温かい。雪が舞い散るような季節になれば、こんな思いは、毎日のように感じる。
井戸水は、冬に温かく、夏に冷たい。
心地よく感じる井戸水は、土の中から滲み出した水である。
ならば、井戸水は、その土地に育った野菜にもおいしいのではないだろうか?。
ーーー
僕は、肌が強いのだろうか?これまで、肌荒れになったことはない。
野菜を洗うのに、長い間、手が水に浸かっていると、手がふやけてくる。そして、気がつくと、心無しか肌がカサついている。それでも、ハンドクリームなど浸けるなどしてほっておくと、翌日にはツヤツヤの肌になっている。
ところが、こういう問題は、人によって、水によってずいぶんと大差がある。
たとえば、多くの女性が、化粧水を使う。化粧水は、肌に合わなければ、肌荒れの原因になる。肌に合う水とは、とても大切になる。
友人は、海外で仕事をするようになって、かなり長い間、ずいぶんと肌荒れに悩まされたそうだ。理由は水。仕事柄、1日何時間もの間、水に触れている。日本で料理をしていた時にはならなかった手荒れが、海外では、ひどい肌荒れになってしまったらしい。肌が極端に弱いという訳でもないだろうに、水が違うというのは、そこまで大きな変化をもたらすもののようだ。
ーーー
これと同じことが、野菜にも当てはまる。野菜の肌に合わない水は、野菜の生育にも良くない。
野菜を育てるのに、赤錆が出るような水道水を与えるなどは論外らしい。野菜も『おいしい水』を欲しているのだ。
もっとも、『おいしい水』とは、単純にその成分だけではないように思う。
ーーー
野菜の場合、野菜が水を欲している時に水を与えてあげないと思わぬことが起きる。
たとえば、芋などの根野菜は、栽培している時には、少ない水でもよく育つ。生命力があるのだ、と思う。しかし、収穫した跡には、水が近くにあるとすぐに芽を出してしまうし、時には、腐ったりもする。このことに習えば、芋を保存するには、水を近づけなければよい、ということになる。
ーーー
トマトの原産地は、水があまり降らない乾燥した高地らしい。その為だろう。トマトは、雨などの水を極端に嫌う。葉っぱなどに直接水があたると、容易く病気などにかかってしまう。
友人は、トマトの収穫時期になると、「しばらく、水をやらずにいじめてやる」と言う。水を貰えなくなったトマトは、間もなく、喉が渇いた人と同じようになる。体の水分が減ることで、トマトの味は濃くなっていく。そこへ、水と一緒に肥料をやる。水を貰ったトマトは、水分をたくさん吸収しようとしてしているので、効果的に栄養を与えることができる。
ーーー
夏の暑い季節、収穫した直後の茄子は、とても温かい。強い日差しを浴びて、温かくなっているのだ。しかし、収穫した茄子を水洗いしてやると、茄子が生き生きとして見える。水を浴びて冷やされた茄子は、不思議なことだが、収穫した時よりも元気そうに見える。この理由についてはわからない。
ーーー
野菜にとって、水がなによりも大切なものであることは間違いない。しかし、野菜だって、水をおいしく飲みたいに決まっている。
冬場、野菜を洗うなどしていると、井戸水に浸かった手を外に出したくなくなる。ずっと水に浸けていたい。それほど、井戸水は温かい。雪が舞い散るような季節になれば、こんな思いは、毎日のように感じる。
井戸水は、冬に温かく、夏に冷たい。
心地よく感じる井戸水は、土の中から滲み出した水である。
ならば、井戸水は、その土地に育った野菜にもおいしいのではないだろうか?。
ーーー
僕は、肌が強いのだろうか?これまで、肌荒れになったことはない。
野菜を洗うのに、長い間、手が水に浸かっていると、手がふやけてくる。そして、気がつくと、心無しか肌がカサついている。それでも、ハンドクリームなど浸けるなどしてほっておくと、翌日にはツヤツヤの肌になっている。
ところが、こういう問題は、人によって、水によってずいぶんと大差がある。
たとえば、多くの女性が、化粧水を使う。化粧水は、肌に合わなければ、肌荒れの原因になる。肌に合う水とは、とても大切になる。
友人は、海外で仕事をするようになって、かなり長い間、ずいぶんと肌荒れに悩まされたそうだ。理由は水。仕事柄、1日何時間もの間、水に触れている。日本で料理をしていた時にはならなかった手荒れが、海外では、ひどい肌荒れになってしまったらしい。肌が極端に弱いという訳でもないだろうに、水が違うというのは、そこまで大きな変化をもたらすもののようだ。
ーーー
これと同じことが、野菜にも当てはまる。野菜の肌に合わない水は、野菜の生育にも良くない。
野菜を育てるのに、赤錆が出るような水道水を与えるなどは論外らしい。野菜も『おいしい水』を欲しているのだ。
もっとも、『おいしい水』とは、単純にその成分だけではないように思う。
ーーー
野菜の場合、野菜が水を欲している時に水を与えてあげないと思わぬことが起きる。
たとえば、芋などの根野菜は、栽培している時には、少ない水でもよく育つ。生命力があるのだ、と思う。しかし、収穫した跡には、水が近くにあるとすぐに芽を出してしまうし、時には、腐ったりもする。このことに習えば、芋を保存するには、水を近づけなければよい、ということになる。
ーーー
トマトの原産地は、水があまり降らない乾燥した高地らしい。その為だろう。トマトは、雨などの水を極端に嫌う。葉っぱなどに直接水があたると、容易く病気などにかかってしまう。
友人は、トマトの収穫時期になると、「しばらく、水をやらずにいじめてやる」と言う。水を貰えなくなったトマトは、間もなく、喉が渇いた人と同じようになる。体の水分が減ることで、トマトの味は濃くなっていく。そこへ、水と一緒に肥料をやる。水を貰ったトマトは、水分をたくさん吸収しようとしてしているので、効果的に栄養を与えることができる。
ーーー
夏の暑い季節、収穫した直後の茄子は、とても温かい。強い日差しを浴びて、温かくなっているのだ。しかし、収穫した茄子を水洗いしてやると、茄子が生き生きとして見える。水を浴びて冷やされた茄子は、不思議なことだが、収穫した時よりも元気そうに見える。この理由についてはわからない。
ーーー
野菜にとって、水がなによりも大切なものであることは間違いない。しかし、野菜だって、水をおいしく飲みたいに決まっている。
2005年11月18日金曜日
降り売り
『振り売り』とは、「農家が、野菜を売り歩くこと」である。京都では、今でも『降り売り』が行われている。
竹で編んだカゴを背負って歩くようなもの。『大八車』と呼ばれる荷車を引いていくもの。軽トラックで走り回るもの。『降り売り』では、さまざまな手段で野菜を運び、売る。農家が直接売りにいくので、野菜が新鮮であり、生産者がはっきりしているので安心して食べることができる。
友人の家でも、『降り売り』をしている。
『降り売り』は、友人のおかあさんの仕事だ。おかあさんは、休日・祝祭日を除く、ほとんど毎日、『大八車』を引いて『降り売り』に出掛ける。
『大八車』は、長さ5m近くにもなる大きな荷台。その真ん中あたりの両側に1つずつ大きな車輪。荷台にくくり付けられた幅太のロープをタスキのように肩にかけ、荷台の先頭に差し込んだ長い棒で方向を定めながら移動する。『大八車』には、大きめのカゴで6つから7つ。たくさん荷物を積むことができる。だから、冬場は、大根やカブラなどの根野菜が多くなると、『大八車』の総重量では、数百キロにもなる。
その『大八車』を体重40キロに満たない、小柄なおかあさんが、引っ張って歩く。
ーーー
『降り売り』には、前日、または、その日の早朝に収穫された、本当に新鮮なものが準備される。おかあさんが売り歩くコースはほぼ決まっていて、そのコース上にあるお得意さんの一軒一軒に声をかけながら回る。何度かおかあさんについて回ったことがあるが、なかなか大変な仕事である。
『大八車』に載せた荷物は重くても、大きな車輪を中心に天秤になっているから、重さ自体は、さほど苦にならない。もっとも、野菜が売れはじめると、野菜の売れ行きにどうしてもバラツキが出るから、荷台の前と後ろのバランスが悪くなる。そうなると、荷物を動かしてバランスをとらなければいけない。これに、なかなか勘がいる。
しかし、おかあさんを注意深く見ていると、カゴの中にある野菜を少しづつ別のカゴへと移し替えている。
うーん。やるなあ。
坂道などでは、『大八車』の重みで転がっていかないように、荷台をできるだけ傾けて移動させる。こんな時、おかあさんは、長い棒をみごとに操る。荷台の後ろに付けられた古タイヤをストッパーとなるように引きずって移動する。これも、簡単そうで、なかなか難しい。しかし、おかあさんは、なんの苦もないように、細い路地であろうが、ためらいもなくスイスイと入っていく。
ーーー
『大八車』少し引っ張ってしばらく移動すると、車を止めて、周辺の家に声をかけて回る。すると、お得意さんたちが、お財布を持って、小さな網かごやざるを持ってやってくる。
その様子を見た、通りがかりの観光客がやって来て、『大八車』の上に並んだ野菜を覗き込む。どこにでも、売り場ができてしまう。
最近のテレビ・コマーシャルで、『玄関でショッピング!』なんていうのがあるけど、友人の家では、先祖代々、ずいぶんと昔から、『玄関でショッピング!』をしていた。しかも、新鮮な、文字通り、採れたての野菜である。
竹で編んだカゴを背負って歩くようなもの。『大八車』と呼ばれる荷車を引いていくもの。軽トラックで走り回るもの。『降り売り』では、さまざまな手段で野菜を運び、売る。農家が直接売りにいくので、野菜が新鮮であり、生産者がはっきりしているので安心して食べることができる。
友人の家でも、『降り売り』をしている。
『降り売り』は、友人のおかあさんの仕事だ。おかあさんは、休日・祝祭日を除く、ほとんど毎日、『大八車』を引いて『降り売り』に出掛ける。
『大八車』は、長さ5m近くにもなる大きな荷台。その真ん中あたりの両側に1つずつ大きな車輪。荷台にくくり付けられた幅太のロープをタスキのように肩にかけ、荷台の先頭に差し込んだ長い棒で方向を定めながら移動する。『大八車』には、大きめのカゴで6つから7つ。たくさん荷物を積むことができる。だから、冬場は、大根やカブラなどの根野菜が多くなると、『大八車』の総重量では、数百キロにもなる。
その『大八車』を体重40キロに満たない、小柄なおかあさんが、引っ張って歩く。
ーーー
『降り売り』には、前日、または、その日の早朝に収穫された、本当に新鮮なものが準備される。おかあさんが売り歩くコースはほぼ決まっていて、そのコース上にあるお得意さんの一軒一軒に声をかけながら回る。何度かおかあさんについて回ったことがあるが、なかなか大変な仕事である。
『大八車』に載せた荷物は重くても、大きな車輪を中心に天秤になっているから、重さ自体は、さほど苦にならない。もっとも、野菜が売れはじめると、野菜の売れ行きにどうしてもバラツキが出るから、荷台の前と後ろのバランスが悪くなる。そうなると、荷物を動かしてバランスをとらなければいけない。これに、なかなか勘がいる。
しかし、おかあさんを注意深く見ていると、カゴの中にある野菜を少しづつ別のカゴへと移し替えている。
うーん。やるなあ。
坂道などでは、『大八車』の重みで転がっていかないように、荷台をできるだけ傾けて移動させる。こんな時、おかあさんは、長い棒をみごとに操る。荷台の後ろに付けられた古タイヤをストッパーとなるように引きずって移動する。これも、簡単そうで、なかなか難しい。しかし、おかあさんは、なんの苦もないように、細い路地であろうが、ためらいもなくスイスイと入っていく。
ーーー
『大八車』少し引っ張ってしばらく移動すると、車を止めて、周辺の家に声をかけて回る。すると、お得意さんたちが、お財布を持って、小さな網かごやざるを持ってやってくる。
その様子を見た、通りがかりの観光客がやって来て、『大八車』の上に並んだ野菜を覗き込む。どこにでも、売り場ができてしまう。
最近のテレビ・コマーシャルで、『玄関でショッピング!』なんていうのがあるけど、友人の家では、先祖代々、ずいぶんと昔から、『玄関でショッピング!』をしていた。しかも、新鮮な、文字通り、採れたての野菜である。
2005年11月17日木曜日
白菜の花
白菜が収穫されるようになった。
数週間前から、少しづつ採られていたようなのが、冷え込むようになってきて収穫量が増えたように思う。
紅葉が色づくということは、冷え込んできていることでもあり、冷え込んでくると、白菜も甘くなる。
赤い紅葉と白い白菜の関係は、美しい。
ーーー
白菜の白いところをまじまじと見つめていると、無性に鍋料理が食べたくなる。
そして、白菜の先端。柔らかく、くしゃくしゃに縮れた葉っぱのところを見ていると、思い出す人がいる。
ーーーーー
友人のところには、いろいろな人がやってくる。
その中には、料理人という人が、案外多い。
春先のこと。友人が大怪我をして入院したことがあった。その長い入院期間、自分の仕事を放り出してまで手伝いにきていた料理人がいた。
その人は、石井さん。
友人の奥さんは、「料理人の方が、手伝いにきてくれるんやて・・・」と、言っていた。
僕は、「どんな人がやって来るんだろう」と、想像をかき立てていた。
そこへ、彼は、やってきた。
黒いセーターに茶色のパンツ。浅黒い肌に口ひげを蓄え、クリッとしたつぶらな瞳。話すとやたらとハスキーな声を出す、どこか愛らしいおっさん。それが、石井さんだった。
ーーー
そもそも、僕は、料理人という人、料理人という仕事をよく知らない。
スーパーで見かける野菜と少し違う形をした野菜を見たら、「へんな野菜!」と言い切ってしまう今時のこどもたちのように、料理人は、テレビの中で作られていた。料理店で見かける料理人の服装をした人こそ料理人だ、と思っていた。
僕は、このブログに、自分の料理についても書くつもりだ。でも、本物の料理人を前にすると、少し小さな口になる。なにしろ、料理人という仕事がわかっていない、というのが厄介だ。でも、この口が滑ると、よけいなことを言ってしまうかもしれない。うーむ。まあ、陰口を言うことはないが、本人を目の前にすると、言ってしまうかもしれない。わからん。
ーーー
この石井さん。京都でも老舗の料亭で仕事を覚え、その後、大使館の料理人となって世界を渡り歩いてきた。
ーーー
・・・・。
おいおい。
全然わからんじゃないか?僕のやってきた料理と何が違うんじゃあ!
老舗の料理なんて、滅多に食べられないし。そもそも、ブログで書いているのに、なんて説明すればよいのじゃあ!
適当な料理雑誌だったら、上の説明で十分なんだろうけど、このブログでは、そんな横暴は許さん。
ん。ちょっと違う方向に進み始めているかも・・・。(反省)
ーーー
石井さんが料亭で働き始めた頃、店のお使いで、友人の畑にやってくるようになった。店のお休み、店の開ける前、店が終わった後、友人のところにやってきて、農作業を手伝った。だから、友人との付き合いは僕よりもずいぶんと長い。
しかし、熱心なところは、手伝いだけという訳でもなさそうだ。
彼と畑に一緒にいると、そこら中に生えているものに手を出す。野菜とわかっているものなら、そのまま口に入れる。
お腹がすいているのだろうか?
たしかに、彼は大食いだった。ほんとうにどんぶりでご飯を食べる。しかも、オカワリをする。
彼は、畑に育っている野菜や花を口に入れながら、味を確かめていた。
しかし、その様子を見ていると、畑の中で、蝶や虫を追いかけながら走り回っている・・・と言っても、不思議がないほど、目に付くものに近づいていき、ポキリと手折って、口に運んでパクリと食べている。
ポキリ。パクリ。まさに、好奇心の固まりだ。
ーーー
実際、料理人という方と話をしていると、「そんなことをするんだあ」という声を上げる機会が多くなる。
そして、料理人というのは、なかなか得体の知れない存在だな、と思う。
ーーー
包丁を一本持って、それをさらしに巻いて歩き回っていたら、今時の料理人は、テロリストとして間違われてしまうかもしれないが、ポキリ・パクリは、料理人なんだろうか?いや、料理人なんだ、と思った。あるいは、ゲリラかもしれない。
僕は、料理人は、僕のように雑学から学んだ料理とは違う、正しい料理をする人、と思っていた。何が正しいかは別として、そのあたりの正統派であることも間違ってはいない、と思う。でも、石井さんのように、ちゃんと学んできていることだけでは飽き足らずに、ポキリ・パクリとやる人もいる。
その姿を知った上では、僕は、なによりも、この人の人柄を大切にしたいと思う。
ーーー
春先、白菜の畑でのこと。
石井さんは、白菜の花をポキリとやって、僕に手渡した。
白菜の花は、大根の花とよく似ている。
でも、少しだけだが、白菜の葉っぱの先のように波うった感じがある。
パクリ。んが。
この味は忘れられない。恐るべし、料理人。
数週間前から、少しづつ採られていたようなのが、冷え込むようになってきて収穫量が増えたように思う。
紅葉が色づくということは、冷え込んできていることでもあり、冷え込んでくると、白菜も甘くなる。
赤い紅葉と白い白菜の関係は、美しい。
ーーー
白菜の白いところをまじまじと見つめていると、無性に鍋料理が食べたくなる。
そして、白菜の先端。柔らかく、くしゃくしゃに縮れた葉っぱのところを見ていると、思い出す人がいる。
ーーーーー
友人のところには、いろいろな人がやってくる。
その中には、料理人という人が、案外多い。
春先のこと。友人が大怪我をして入院したことがあった。その長い入院期間、自分の仕事を放り出してまで手伝いにきていた料理人がいた。
その人は、石井さん。
友人の奥さんは、「料理人の方が、手伝いにきてくれるんやて・・・」と、言っていた。
僕は、「どんな人がやって来るんだろう」と、想像をかき立てていた。
そこへ、彼は、やってきた。
黒いセーターに茶色のパンツ。浅黒い肌に口ひげを蓄え、クリッとしたつぶらな瞳。話すとやたらとハスキーな声を出す、どこか愛らしいおっさん。それが、石井さんだった。
ーーー
そもそも、僕は、料理人という人、料理人という仕事をよく知らない。
スーパーで見かける野菜と少し違う形をした野菜を見たら、「へんな野菜!」と言い切ってしまう今時のこどもたちのように、料理人は、テレビの中で作られていた。料理店で見かける料理人の服装をした人こそ料理人だ、と思っていた。
僕は、このブログに、自分の料理についても書くつもりだ。でも、本物の料理人を前にすると、少し小さな口になる。なにしろ、料理人という仕事がわかっていない、というのが厄介だ。でも、この口が滑ると、よけいなことを言ってしまうかもしれない。うーむ。まあ、陰口を言うことはないが、本人を目の前にすると、言ってしまうかもしれない。わからん。
ーーー
この石井さん。京都でも老舗の料亭で仕事を覚え、その後、大使館の料理人となって世界を渡り歩いてきた。
ーーー
・・・・。
おいおい。
全然わからんじゃないか?僕のやってきた料理と何が違うんじゃあ!
老舗の料理なんて、滅多に食べられないし。そもそも、ブログで書いているのに、なんて説明すればよいのじゃあ!
適当な料理雑誌だったら、上の説明で十分なんだろうけど、このブログでは、そんな横暴は許さん。
ん。ちょっと違う方向に進み始めているかも・・・。(反省)
ーーー
石井さんが料亭で働き始めた頃、店のお使いで、友人の畑にやってくるようになった。店のお休み、店の開ける前、店が終わった後、友人のところにやってきて、農作業を手伝った。だから、友人との付き合いは僕よりもずいぶんと長い。
しかし、熱心なところは、手伝いだけという訳でもなさそうだ。
彼と畑に一緒にいると、そこら中に生えているものに手を出す。野菜とわかっているものなら、そのまま口に入れる。
お腹がすいているのだろうか?
たしかに、彼は大食いだった。ほんとうにどんぶりでご飯を食べる。しかも、オカワリをする。
彼は、畑に育っている野菜や花を口に入れながら、味を確かめていた。
しかし、その様子を見ていると、畑の中で、蝶や虫を追いかけながら走り回っている・・・と言っても、不思議がないほど、目に付くものに近づいていき、ポキリと手折って、口に運んでパクリと食べている。
ポキリ。パクリ。まさに、好奇心の固まりだ。
ーーー
実際、料理人という方と話をしていると、「そんなことをするんだあ」という声を上げる機会が多くなる。
そして、料理人というのは、なかなか得体の知れない存在だな、と思う。
ーーー
包丁を一本持って、それをさらしに巻いて歩き回っていたら、今時の料理人は、テロリストとして間違われてしまうかもしれないが、ポキリ・パクリは、料理人なんだろうか?いや、料理人なんだ、と思った。あるいは、ゲリラかもしれない。
僕は、料理人は、僕のように雑学から学んだ料理とは違う、正しい料理をする人、と思っていた。何が正しいかは別として、そのあたりの正統派であることも間違ってはいない、と思う。でも、石井さんのように、ちゃんと学んできていることだけでは飽き足らずに、ポキリ・パクリとやる人もいる。
その姿を知った上では、僕は、なによりも、この人の人柄を大切にしたいと思う。
ーーー
春先、白菜の畑でのこと。
石井さんは、白菜の花をポキリとやって、僕に手渡した。
白菜の花は、大根の花とよく似ている。
でも、少しだけだが、白菜の葉っぱの先のように波うった感じがある。
パクリ。んが。
この味は忘れられない。恐るべし、料理人。
2005年11月16日水曜日
ハイテク農園
以前から話題になっていた和歌山県の農業特区に、カゴメが作ったハイテク農園『加太菜園』が稼働を始めたそうだ。
このハイテク農園は、これまでの水耕栽培をもっと進化させたものらしい。なんでも、1年のうち、10ヶ月間、トマトが採れるらしい。『加太菜園』では、今後、増産体制をとってアジア最大の生産量を目指すそうだ。実際、トマトのためのハイテク生産工場という映像が流れていた。
・・・・・
ほんのこの前、今年最後のトマトの収穫だと思う・・・と書いた途端に、このニュースがテレビで流れた。
いつか機会があれば、こういう農園の見学をしてみたい。人類が地球に住めなくなって宇宙ステーションで暮らすようにでもなれば、こういった技術をどんどんと進化させていく必要があるだろう。だから、少しでも良い土で作ったトマトの味に近づくのであれば、その努力をして欲しい、と思う。
もっとも、「効率よくできるトマトが良いトマト」、「コストが安いトマトが良いトマト」、なんてことにならないように、と願う。
一生懸命においしいものを作ろうとしている人と単純にお金儲けを考える人は、本質的には違う。まして、この両方を目指している、と言う人がいれば、そいつは、かなり怪しい。
・・・・・
今日は天気がよいので、太陽が傾いてくる前にと思って、『光悦寺』の紅葉を撮影してきた。
その帰り道、友人の家の前にいたので、おにいをつかまえて、トマト・カレーの感想を聞いてみた。
「火が出そうなほど辛かった」
おにいの感想。いつもながら、カンタンには喜べないコメントだ。
でも、このコメントが、食べるカレーがなくなってから何日か経つと、「また作って!」となる。
友人の奥さん、つまり、おにいのお母さんに聞いてみると、僕がカレーの差し入れをすると、おにいは、それがなくなるまでカレーばかりを食べている・・・そうだ。
うーむ。辛ければなんでもよい、という訳でもないだろうけど、僕のこだわりは伝わっているのか?と首を傾げてみる。
・・・・・
ハイテク農園で採れるトマトは、ニュースで流れた映像だけを見ていると、フルーツトマトのような小ぶりのものに見えた。
このトマトは、どんな味がするんだろう?カゴメが資本参加して作ったトマトならば、トマトジュースの原料に使われるのだろうか?
近くまで行けば、食べさせてもらうことはできるのだろうか?
・・・・・
このハイテク・トマトを使ってカレーを作ると、どんな味になるんだろう?
このブログに書いたように、やはり2種類以上のトマトと組み合わせた方がおいしい方のトマトなのだろうか?
うーん。トマトだけでカレーができる訳じゃないけど、考えてしまうなあ。
そういえば、おにいは、カレーを辛くなくしても、「食べたい」って言うのかなあ?
これも、やってみないとわからないしなあ。
このハイテク農園は、これまでの水耕栽培をもっと進化させたものらしい。なんでも、1年のうち、10ヶ月間、トマトが採れるらしい。『加太菜園』では、今後、増産体制をとってアジア最大の生産量を目指すそうだ。実際、トマトのためのハイテク生産工場という映像が流れていた。
・・・・・
ほんのこの前、今年最後のトマトの収穫だと思う・・・と書いた途端に、このニュースがテレビで流れた。
いつか機会があれば、こういう農園の見学をしてみたい。人類が地球に住めなくなって宇宙ステーションで暮らすようにでもなれば、こういった技術をどんどんと進化させていく必要があるだろう。だから、少しでも良い土で作ったトマトの味に近づくのであれば、その努力をして欲しい、と思う。
もっとも、「効率よくできるトマトが良いトマト」、「コストが安いトマトが良いトマト」、なんてことにならないように、と願う。
一生懸命においしいものを作ろうとしている人と単純にお金儲けを考える人は、本質的には違う。まして、この両方を目指している、と言う人がいれば、そいつは、かなり怪しい。
・・・・・
今日は天気がよいので、太陽が傾いてくる前にと思って、『光悦寺』の紅葉を撮影してきた。
その帰り道、友人の家の前にいたので、おにいをつかまえて、トマト・カレーの感想を聞いてみた。
「火が出そうなほど辛かった」
おにいの感想。いつもながら、カンタンには喜べないコメントだ。
でも、このコメントが、食べるカレーがなくなってから何日か経つと、「また作って!」となる。
友人の奥さん、つまり、おにいのお母さんに聞いてみると、僕がカレーの差し入れをすると、おにいは、それがなくなるまでカレーばかりを食べている・・・そうだ。
うーむ。辛ければなんでもよい、という訳でもないだろうけど、僕のこだわりは伝わっているのか?と首を傾げてみる。
・・・・・
ハイテク農園で採れるトマトは、ニュースで流れた映像だけを見ていると、フルーツトマトのような小ぶりのものに見えた。
このトマトは、どんな味がするんだろう?カゴメが資本参加して作ったトマトならば、トマトジュースの原料に使われるのだろうか?
近くまで行けば、食べさせてもらうことはできるのだろうか?
・・・・・
このハイテク・トマトを使ってカレーを作ると、どんな味になるんだろう?
このブログに書いたように、やはり2種類以上のトマトと組み合わせた方がおいしい方のトマトなのだろうか?
うーん。トマトだけでカレーができる訳じゃないけど、考えてしまうなあ。
そういえば、おにいは、カレーを辛くなくしても、「食べたい」って言うのかなあ?
これも、やってみないとわからないしなあ。
パン屋『クロア』
鷹峯街道にある、僕の行きつけのパン屋の『クロア』。
『クロア』では、友人の作るさまざまな野菜を使ったパンがある。
パンの中にトマトを練り込んだものから、ピザになったもの、輪切りのトマトがローストされたもの、トマトだけではないのだが、実にさまざまなパンを食べることができる。
パンを食べてみて思うのが、深い、そして、しっかりとした味がする。
・・・・・
僕のパンの歴史は、こどもの頃、学校の給食として始まったような気がする。
あのパンは、保育園の同級生の家が作っていたものだ。もちろん、保育園の時も、学校の給食に限らずパンを食べていたはずだ。でも、パンを食べることは、養鶏場の鶏が目の前に置かれた餌をついばむような、単調な仕草の一つでしかなかったように思う。
うーん。ずいぶんと乱暴な表現になってしまった観があるが、間違っているようには思わない。まあ、それくらい、パンに魅力を感じていなかった。
今から思えば、そう言えばそうでした・・・と、記憶喪失の人が、記憶を取り戻してから、記憶をなくす前の自分と、記憶がなくなっていた間の自分と、そして、今の自分の3つの自分が一つだと認識するようなもので、本人には悪気はなかった。ん?僕には、悪気はなかった。ん?まあいい。
・・・
では、なぜ学校の給食からパンの歴史が始まったかと言えば、『机の中に詰め込まれたパン事件』が教室で起きてからだ。
まあ、どこの学校でもよくある事件かもしれない。パンが嫌いなこどもは、パンを残すと先生から叱らるので、こっそりと机の中にパンを隠していた。最初のうちは、たいした場所をとらないパンも学期が終わる頃には、力任せに押し込まれ、圧縮され、机そのものが重くなったような錯覚を起こさせるほど、大きな存在なっていた。嫌なものから逃れようとする人間のエネルギーは大きい。
小さなこどもには、学校の机はこども用と言っても、やはり扱いにくい。掃除の時間になって、机が倒れた。その勢いでドッと飛び出したモノ。青い模様。黒い模様。いろいろな模様が混じりあった白い立方体。
そう、パンが出ていた。
・・・・・
思い起こせば、あの時の疑問がなければ、パンをここまで愛するようになったのか?と思う。
・・・・・
白い立方体状になったパンが出てきた机。そして、その机の主は、その瞬間から時の人となった。
もっとも、僕の関心は、その人ではなく、パンそのものにあった。
なぜパンがそんな風になったのか?それがなによりもショックだった。
あの固くなってしまったパン、あれは・・・。
・・・・・
僕は、学年で1番2番を争うほど小さかった。そして、食が細く、9歳で十二指腸潰瘍になるほど繊細?なところがあった(はず)。
そのせいか、なにかを食べておいしい、と感じることはあまりなかった。でも、そんな僕にも、唯一、好きなものがあった。
ピザ。それが、ぼくの好きなもの。
・・・・・
ピザを食べたのは、ボーリング場のレストラン。家族と出掛けた数少ない記憶の中で、レストランで食べたピザは、強烈な記憶になっていた。
当時、『とろけるチーズ』なんてものは、家庭にはなかった。たいした味もしない固めのパン生地に、サラミソーセージ、ピーマンの細く切ったもの。熱くとろけたチーズがその上にかけられていた。今から考えれば、桁外れにシンプルな料理だった。こんなピザだと、『ピザーラ』も、『ピザハット』も、『シカゴピザ』も、『ドミノピザ』も、ええっと。とにかくピザ屋が、今の流行ることはなかっただろう。それでも、ほんとうに新しいということは、誤解を招く最大の原因だと思う。
チーズがこぼれ落ちないように、「熱い。熱い」と言いながら食べただけで、強烈な記憶として残ったピザ。そして、間違った誤解は、ピザから生じた。
ピザをおいしくさせていた「とろけたチーズ」は簡単には手に入らなかった。目的を見失った幼い僕が、その次に向けた目的。
それは、なぜか「たいした味もしない固めのパン生地」に向かっていた。
うーん。今から考えると、自分でも空しい。こどもの頃の僕には、ぽっかりと抜け落ちた感性があるように思う。まあ、この辺りのことを反省してみても、先に進まないので、ほっておくとする。
・・・
白い立方体状になったパン。そのパンを見てひらめいたことがあった。
そう。パンを固めれば、僕でも、「たいした味もしない固めのパン生地」が作れる!
実現性という関点から見れば、懸命な判断だったかもしれない。
しかしなあ・・・。
・・・
こうして、パンを固めながら食べることが、当時、僕の大ブームになっていた。
・・・・・
パン屋の『クロア』の話をする前に、パンのことを話そうとしたのだが、間違った判断ではなかったか?
うーん。うーん。
ともかく、おいしいパンを食べる時、僕は、今となっては反面教師でしかあり得ない「たいした味もしない固めのパン生地」を思い出してしまうのだ。
手を替え、品を替え、おいしいパンを作ってくれる、『クロア』のことは、これからも何度となく話をすることになるだろう。断っておくが、『クロア』で作られるパンは、どれもおいしい。
だからこそ、僕の記憶の中では、あの対極にある「たいした味もしない固めのパン生地」の記憶が呼び起こされる。いまいましくもあるが、このことは、忘れてしまっては、新しい発見へとは繋がらない。
・・・・・
ちなみに、最近の僕のおすすめは、『れんこんパン』。
れんこんの歯触りが、新しいパンの食感を教えてくれる。
『きのこ』は、中に入った、たくさんのきのことベシャメルソースがパンにからんできて、たまらない。パンをぱくっとやったときに、パンの中にあった空間から、ほわっと芳醇なにおいがする瞬間をぜひ楽しんで欲しい。
あああ。たくさん文章を書くことができるブログなのに、なんだか無駄に文字を費やしてしまったのではないだろうか?
あああ。カレーもあることだし、パンで食べるのも悪くないなあ。
『クロア』では、友人の作るさまざまな野菜を使ったパンがある。
パンの中にトマトを練り込んだものから、ピザになったもの、輪切りのトマトがローストされたもの、トマトだけではないのだが、実にさまざまなパンを食べることができる。
パンを食べてみて思うのが、深い、そして、しっかりとした味がする。
・・・・・
僕のパンの歴史は、こどもの頃、学校の給食として始まったような気がする。
あのパンは、保育園の同級生の家が作っていたものだ。もちろん、保育園の時も、学校の給食に限らずパンを食べていたはずだ。でも、パンを食べることは、養鶏場の鶏が目の前に置かれた餌をついばむような、単調な仕草の一つでしかなかったように思う。
うーん。ずいぶんと乱暴な表現になってしまった観があるが、間違っているようには思わない。まあ、それくらい、パンに魅力を感じていなかった。
今から思えば、そう言えばそうでした・・・と、記憶喪失の人が、記憶を取り戻してから、記憶をなくす前の自分と、記憶がなくなっていた間の自分と、そして、今の自分の3つの自分が一つだと認識するようなもので、本人には悪気はなかった。ん?僕には、悪気はなかった。ん?まあいい。
・・・
では、なぜ学校の給食からパンの歴史が始まったかと言えば、『机の中に詰め込まれたパン事件』が教室で起きてからだ。
まあ、どこの学校でもよくある事件かもしれない。パンが嫌いなこどもは、パンを残すと先生から叱らるので、こっそりと机の中にパンを隠していた。最初のうちは、たいした場所をとらないパンも学期が終わる頃には、力任せに押し込まれ、圧縮され、机そのものが重くなったような錯覚を起こさせるほど、大きな存在なっていた。嫌なものから逃れようとする人間のエネルギーは大きい。
小さなこどもには、学校の机はこども用と言っても、やはり扱いにくい。掃除の時間になって、机が倒れた。その勢いでドッと飛び出したモノ。青い模様。黒い模様。いろいろな模様が混じりあった白い立方体。
そう、パンが出ていた。
・・・・・
思い起こせば、あの時の疑問がなければ、パンをここまで愛するようになったのか?と思う。
・・・・・
白い立方体状になったパンが出てきた机。そして、その机の主は、その瞬間から時の人となった。
もっとも、僕の関心は、その人ではなく、パンそのものにあった。
なぜパンがそんな風になったのか?それがなによりもショックだった。
あの固くなってしまったパン、あれは・・・。
・・・・・
僕は、学年で1番2番を争うほど小さかった。そして、食が細く、9歳で十二指腸潰瘍になるほど繊細?なところがあった(はず)。
そのせいか、なにかを食べておいしい、と感じることはあまりなかった。でも、そんな僕にも、唯一、好きなものがあった。
ピザ。それが、ぼくの好きなもの。
・・・・・
ピザを食べたのは、ボーリング場のレストラン。家族と出掛けた数少ない記憶の中で、レストランで食べたピザは、強烈な記憶になっていた。
当時、『とろけるチーズ』なんてものは、家庭にはなかった。たいした味もしない固めのパン生地に、サラミソーセージ、ピーマンの細く切ったもの。熱くとろけたチーズがその上にかけられていた。今から考えれば、桁外れにシンプルな料理だった。こんなピザだと、『ピザーラ』も、『ピザハット』も、『シカゴピザ』も、『ドミノピザ』も、ええっと。とにかくピザ屋が、今の流行ることはなかっただろう。それでも、ほんとうに新しいということは、誤解を招く最大の原因だと思う。
チーズがこぼれ落ちないように、「熱い。熱い」と言いながら食べただけで、強烈な記憶として残ったピザ。そして、間違った誤解は、ピザから生じた。
ピザをおいしくさせていた「とろけたチーズ」は簡単には手に入らなかった。目的を見失った幼い僕が、その次に向けた目的。
それは、なぜか「たいした味もしない固めのパン生地」に向かっていた。
うーん。今から考えると、自分でも空しい。こどもの頃の僕には、ぽっかりと抜け落ちた感性があるように思う。まあ、この辺りのことを反省してみても、先に進まないので、ほっておくとする。
・・・
白い立方体状になったパン。そのパンを見てひらめいたことがあった。
そう。パンを固めれば、僕でも、「たいした味もしない固めのパン生地」が作れる!
実現性という関点から見れば、懸命な判断だったかもしれない。
しかしなあ・・・。
・・・
こうして、パンを固めながら食べることが、当時、僕の大ブームになっていた。
・・・・・
パン屋の『クロア』の話をする前に、パンのことを話そうとしたのだが、間違った判断ではなかったか?
うーん。うーん。
ともかく、おいしいパンを食べる時、僕は、今となっては反面教師でしかあり得ない「たいした味もしない固めのパン生地」を思い出してしまうのだ。
手を替え、品を替え、おいしいパンを作ってくれる、『クロア』のことは、これからも何度となく話をすることになるだろう。断っておくが、『クロア』で作られるパンは、どれもおいしい。
だからこそ、僕の記憶の中では、あの対極にある「たいした味もしない固めのパン生地」の記憶が呼び起こされる。いまいましくもあるが、このことは、忘れてしまっては、新しい発見へとは繋がらない。
・・・・・
ちなみに、最近の僕のおすすめは、『れんこんパン』。
れんこんの歯触りが、新しいパンの食感を教えてくれる。
『きのこ』は、中に入った、たくさんのきのことベシャメルソースがパンにからんできて、たまらない。パンをぱくっとやったときに、パンの中にあった空間から、ほわっと芳醇なにおいがする瞬間をぜひ楽しんで欲しい。
あああ。たくさん文章を書くことができるブログなのに、なんだか無駄に文字を費やしてしまったのではないだろうか?
あああ。カレーもあることだし、パンで食べるのも悪くないなあ。
タマネギ
トマト・カレーができた。早速、食べてみた。
うーん。うーん。うれしい。
おいしいものを食べるとうれしいという気持ちになる。この感覚があるというのは、贅沢なことだと思う。
・・・
夜遅くになったが、おにいにも、トマト・カレーを献上した。
今回の評価はどうなるだろう?
友人の家族は、ほとんどニンニクを食べようとしない。従って、このカレーも友人はまず口にしないと思う。
そういう事情もあって、僕の作るトマト・カレーも、おにいと弟のケンちゃんが食べるくらいじゃないだろうか?
以前、聞いたところでは、友人もニンニクを作っていたそうである。
でも、あまりにもにおうので止めたそうだ。
ニンニクづくりの最中に、なにか事件でもあったのだろうか?
もったいない。
・・・・・
僕のカレーに欠かせないものは、トマトとタマネギ、ニンニク、ショウガ、ヨーグルト、アンチョビ、カレー粉、黒コショウ、鶏ガラ、ナドナド・・・。肉は、鶏肉をメインに使う。
なかでも、トマトと同じくらいたくさん使うのが、タマネギだ。
タマネギは、友人の家でも作っている。
友人の家で作るタマネギは大きい。その一つが、ソフトボールよりも一回りくらいの大きさになる。
はじめて見た時は、かなり驚いた。タマネギを二つに割ると、大量の水分が溢れ出してくる。これにも驚いた。切った断面を見ると、その肉厚に驚かされた。1cmとは言わないまでも、かなり分厚い。
・・・・・
友人の家では、春先に植えたタマネギを夏に収穫し、作業小屋の軒先にある棚に5個ずつ束ねて吊るす。
大量のタマネギが作業場いっぱいに置かれたところに風が吹くと、やわらかなタマネギの香りがする。暖かな日差しの中では、どことなく心優しい気持ちにさせてくれる不思議な香りだ。
ニンニクの場合も、収穫すると束ねて軒先に吊るすらしい。こちらの場合は、ニオイがきついから、タマネギのような情景は思い浮かばない。
うーん。ニンニクを作らないのは、作り手の立場になって考えると、わからないでもない。
友人の作った、どの野菜にも感じることだが、そのひとつひとつに思い入れが残る。
たぶん、友人の手伝いをしながら、その野菜の育つさまを眺めているからだろう。
友人の家では、『降り売り』をして野菜を売る。だから、商売用の野菜は、作業小屋でひとつひとつ『おそうじ』する。『おそうじ』とは、『赤葉(あかば)』と呼ばれる余分な葉っぱを取ったり、野菜についた土を取ったり、洗ったり、適当な量に束ねたりする作業のことで、野菜が異なれば、それぞれに異なる。
売り物にしている野菜は、丹念に『おそうじ』をする。
友人から野菜を貰う時は、『おそうじ』の終わっていない状態でもらうことが多い。まあ、友人や友人の家族の手間を増やすくらいならそっちの方が心安い。だから、野菜を貰ったら、まず『おそうじ』から始まる。
こうやって手に入れた野菜をまな板の上に置くと、野菜についた土を見つけることがある。この段階では、土は、赤ん坊のへその緒のように、既にその役割を終えた余分なものだ。それでも、僕の手元にやってくるまでの過程を知っているから、「この野菜は、どの畑からやってきたんだろう?」と記憶をたぐり寄せるきっかけとなる。
「このタマネギは、桂で採ったやつだろうなあ。じゃあ、たくさんの太陽を浴びたやつだな・・・」
とか、いった具合だ。
・・・・・
だから、料理にもそれとなく熱がこもってくる。
肉厚のタマネギは、できる限り細かく刻む。カレーに使う時は、タマネギの食感がなくなるくらいまで刻む。目が痛くなる。でも、泣きながら刻む。刻む。そして、炒める。炒めたタマネギの色が黒くなるくらいまで、ずっと炒める。簡単に冷めないようにと思って買った鉄鍋は思いから、炒めているだけでも、くたびれる。でも、炒める。
少しだけ楽をする方法がある。
タマネギを炒め始めて、きつね色くらいまでなったら、火を止めて冷ますのだ。30分も経つと、タマネギは、火から下ろした時よりも黒くなっている。酸化がすすんでいるんだろうか?理由はわからないが、この方法をやると、なんとか体裁が整ってくる。
・・・・・
炒めて黒くなったタマネギは、フードプロセッサーに移して、ドロドロになるまでさらに砕く。
ここで、タマネギがペースト状になったら、タマネギの作業は終わり。
・・・・・
こどもの頃は、ボーイスカウトをしていたので、カレーと言えば、市販のルーを使って作るものだと思っていた。
タマネギのペーストを作って、満面な笑みを浮かべている僕は、やっぱり幸せなんだろうと思う。
うーん。うーん。うれしい。
おいしいものを食べるとうれしいという気持ちになる。この感覚があるというのは、贅沢なことだと思う。
・・・
夜遅くになったが、おにいにも、トマト・カレーを献上した。
今回の評価はどうなるだろう?
友人の家族は、ほとんどニンニクを食べようとしない。従って、このカレーも友人はまず口にしないと思う。
そういう事情もあって、僕の作るトマト・カレーも、おにいと弟のケンちゃんが食べるくらいじゃないだろうか?
以前、聞いたところでは、友人もニンニクを作っていたそうである。
でも、あまりにもにおうので止めたそうだ。
ニンニクづくりの最中に、なにか事件でもあったのだろうか?
もったいない。
・・・・・
僕のカレーに欠かせないものは、トマトとタマネギ、ニンニク、ショウガ、ヨーグルト、アンチョビ、カレー粉、黒コショウ、鶏ガラ、ナドナド・・・。肉は、鶏肉をメインに使う。
なかでも、トマトと同じくらいたくさん使うのが、タマネギだ。
タマネギは、友人の家でも作っている。
友人の家で作るタマネギは大きい。その一つが、ソフトボールよりも一回りくらいの大きさになる。
はじめて見た時は、かなり驚いた。タマネギを二つに割ると、大量の水分が溢れ出してくる。これにも驚いた。切った断面を見ると、その肉厚に驚かされた。1cmとは言わないまでも、かなり分厚い。
・・・・・
友人の家では、春先に植えたタマネギを夏に収穫し、作業小屋の軒先にある棚に5個ずつ束ねて吊るす。
大量のタマネギが作業場いっぱいに置かれたところに風が吹くと、やわらかなタマネギの香りがする。暖かな日差しの中では、どことなく心優しい気持ちにさせてくれる不思議な香りだ。
ニンニクの場合も、収穫すると束ねて軒先に吊るすらしい。こちらの場合は、ニオイがきついから、タマネギのような情景は思い浮かばない。
うーん。ニンニクを作らないのは、作り手の立場になって考えると、わからないでもない。
友人の作った、どの野菜にも感じることだが、そのひとつひとつに思い入れが残る。
たぶん、友人の手伝いをしながら、その野菜の育つさまを眺めているからだろう。
友人の家では、『降り売り』をして野菜を売る。だから、商売用の野菜は、作業小屋でひとつひとつ『おそうじ』する。『おそうじ』とは、『赤葉(あかば)』と呼ばれる余分な葉っぱを取ったり、野菜についた土を取ったり、洗ったり、適当な量に束ねたりする作業のことで、野菜が異なれば、それぞれに異なる。
売り物にしている野菜は、丹念に『おそうじ』をする。
友人から野菜を貰う時は、『おそうじ』の終わっていない状態でもらうことが多い。まあ、友人や友人の家族の手間を増やすくらいならそっちの方が心安い。だから、野菜を貰ったら、まず『おそうじ』から始まる。
こうやって手に入れた野菜をまな板の上に置くと、野菜についた土を見つけることがある。この段階では、土は、赤ん坊のへその緒のように、既にその役割を終えた余分なものだ。それでも、僕の手元にやってくるまでの過程を知っているから、「この野菜は、どの畑からやってきたんだろう?」と記憶をたぐり寄せるきっかけとなる。
「このタマネギは、桂で採ったやつだろうなあ。じゃあ、たくさんの太陽を浴びたやつだな・・・」
とか、いった具合だ。
・・・・・
だから、料理にもそれとなく熱がこもってくる。
肉厚のタマネギは、できる限り細かく刻む。カレーに使う時は、タマネギの食感がなくなるくらいまで刻む。目が痛くなる。でも、泣きながら刻む。刻む。そして、炒める。炒めたタマネギの色が黒くなるくらいまで、ずっと炒める。簡単に冷めないようにと思って買った鉄鍋は思いから、炒めているだけでも、くたびれる。でも、炒める。
少しだけ楽をする方法がある。
タマネギを炒め始めて、きつね色くらいまでなったら、火を止めて冷ますのだ。30分も経つと、タマネギは、火から下ろした時よりも黒くなっている。酸化がすすんでいるんだろうか?理由はわからないが、この方法をやると、なんとか体裁が整ってくる。
・・・・・
炒めて黒くなったタマネギは、フードプロセッサーに移して、ドロドロになるまでさらに砕く。
ここで、タマネギがペースト状になったら、タマネギの作業は終わり。
・・・・・
こどもの頃は、ボーイスカウトをしていたので、カレーと言えば、市販のルーを使って作るものだと思っていた。
タマネギのペーストを作って、満面な笑みを浮かべている僕は、やっぱり幸せなんだろうと思う。
2005年11月15日火曜日
2種類のトマト
僕は、辛いカレーが好きだ。
だから、カレーを辛くしたい時には、できるだけたくさんのトマトを使うにしている。このことは、少し矛盾しているように思う方がいるかもしれないが、僕の考えでは正しい。
トマトの酸味は、熱を加えていくと濃厚なうまみと甘さに変わる。
中華料理でも、辛いものになればなるほど酸味を加えたりするようなので、辛みと酸味の間には、なんらかの因果関係があるに違いない。
カレーを作る時、何種類かのトマトを混ぜ合わせると、よりおいしくなる。
昔、テレビ番組でイタリア料理のシェフが、トマトを2種類以上組み合わせて使うことを勧めていたが、その意図は、僕の考えとたぶん同じような理由ではないだろうか?
僕の場合、誰かに料理そのものを習ったわけではないから、この辺りの考えは、すべて偶然の賜物だった。
・・・・・
友人の近所に移り住むようになるまでは、トマトを大量に使う時は、ほとんど缶詰だった。そして、この缶詰は、安売りのときに買い溜めるので、特に銘柄に対してこだわらずに買っていた。ストック用の棚には、いつも何種類かのトマトの缶詰があった。しかし、一度にたくさんのトマトを使おうとなると、どうしても異なる銘柄が混ざり合った。その結果、味にバラツキが出ているように思えた。でも、その時には、なにが原因なのかはわからずに、ただ料理の出来具合を楽しんでいた。
ある日のこと、スーパーで買い物をしていた時にドライトマトが目に留まった。どうやって使うのか?よくわからずに、ドライトマトの入っている袋に裏書きされたメモを見ると、生のトマトよりも甘みがあります・・・とあった。
面白そうなので、使ってみることにした。
魚の干物でもそうだが、天日に干せば、うまみが増す。当然のことながら、ドライトマトにもこの理屈が当てはまると思った。実際に使ってみると、ドライトマトだけを使ったために、すこしドライトマトの味が出しゃばっていた。そこで、ほかの具材を足して味を整えようとしたのだが、今度は、トマトの味が薄くなってきているように思えた。ここで、トマトの缶詰が登場し、間髪入れずに鍋に放り込まれることになった。
こうして、右往左往した結果、試食してみると、いつもよりも味がしっかりとしていることに気がついた。当然のことと言えば、それまでである。ドライトマトという新しい食材が加わったからだ。しかし、最初から組み合わせていたら考えもしなかったことかもしれないが、僕にとっては、これは、一つの発見だった。トマトの缶詰だけでなく、ドライトマトだけでもない。組み合わせたトマトがおいしいのだ。
・・・・・
この発見は、僕にいろいろなことを教えてくれることになった。
その結果、僕がカレーと作る時には、複数の種類のトマトは欠かすことのできないものとなった。
・・・・・
先日、あるテレビ番組を見ていると、こんなコメントがあった。
「人間は、体の中に取り入れた食物を分子レベルの小さな単位にしてから味わう・・・」
たしかに、舌で味を感じるのは、舌の表面にある『味蕾(みらい)』という細胞の仕事だ。味蕾のところに、複数のトマトが刺激が与えわれれば、細胞からの刺激が脳に伝わった時、脳は、過去の記憶と照らし合わせながら、一つに定まろうとしない味の変化にバタバタしているのだろう。味の深みとは、こうして生まれるように思われる。
さまざまな野菜を使ったソースがおいしいのも、それと同じ理由ではないだろうか?
・・・・・
分子レベルでの融合。
このことは、トマトの水耕栽培の話を聞いたときにも、妙に納得したことだ。
一定の比率で作られる溶液は、トマトの生育に必要なものを混ぜ合わせて作られる。机上の理屈からすれば、トマトの生育に最適なものを準備した上で、栽培するのだから、おいしいものができて当然のように思われる。ところが、友人は、「トマトを水耕栽培すると、味が単調になる」と言った。
この友人の発言を僕は強く支持する。
この畑で作られたトマトは、どれも味が均一になってしまう可能性があり、その結果、このようなトマトだけを使っても、味は、均一であっても、深みがなくなってしまうのではないだろうか?
・・・・・
うーん。なんとなく力説してきたなあ。
・・・・・
さて、ようやくカレーの話に戻る。
友人から貰ったたくさんのトマト。ここに別のトマトを足して使うのか?
実は、最近、それをしていない。
友人のトマトを食べるようになって、深い味のするトマトが、それだけで何種類ものトマトにも勝るとも劣らない味わいであることを僕は学んだから、別の種類のトマトを足すなんて、恐ろしいとさえ思う。
いつか試してみたいという誘惑はある。
禁断の世界に足を踏み入れれば、戻って来れなくなるかもしれない。
でも、このトマトが食べれる間は、このトマトそのものが持つ味の深みを堪能していたいのも、正直な気持ちだ。
・・・
さて、そろそろカレーの具合を確かめないと、ずいぶんと煮込んでいる。
良い味が出てきている頃だと思う。
だから、カレーを辛くしたい時には、できるだけたくさんのトマトを使うにしている。このことは、少し矛盾しているように思う方がいるかもしれないが、僕の考えでは正しい。
トマトの酸味は、熱を加えていくと濃厚なうまみと甘さに変わる。
中華料理でも、辛いものになればなるほど酸味を加えたりするようなので、辛みと酸味の間には、なんらかの因果関係があるに違いない。
カレーを作る時、何種類かのトマトを混ぜ合わせると、よりおいしくなる。
昔、テレビ番組でイタリア料理のシェフが、トマトを2種類以上組み合わせて使うことを勧めていたが、その意図は、僕の考えとたぶん同じような理由ではないだろうか?
僕の場合、誰かに料理そのものを習ったわけではないから、この辺りの考えは、すべて偶然の賜物だった。
・・・・・
友人の近所に移り住むようになるまでは、トマトを大量に使う時は、ほとんど缶詰だった。そして、この缶詰は、安売りのときに買い溜めるので、特に銘柄に対してこだわらずに買っていた。ストック用の棚には、いつも何種類かのトマトの缶詰があった。しかし、一度にたくさんのトマトを使おうとなると、どうしても異なる銘柄が混ざり合った。その結果、味にバラツキが出ているように思えた。でも、その時には、なにが原因なのかはわからずに、ただ料理の出来具合を楽しんでいた。
ある日のこと、スーパーで買い物をしていた時にドライトマトが目に留まった。どうやって使うのか?よくわからずに、ドライトマトの入っている袋に裏書きされたメモを見ると、生のトマトよりも甘みがあります・・・とあった。
面白そうなので、使ってみることにした。
魚の干物でもそうだが、天日に干せば、うまみが増す。当然のことながら、ドライトマトにもこの理屈が当てはまると思った。実際に使ってみると、ドライトマトだけを使ったために、すこしドライトマトの味が出しゃばっていた。そこで、ほかの具材を足して味を整えようとしたのだが、今度は、トマトの味が薄くなってきているように思えた。ここで、トマトの缶詰が登場し、間髪入れずに鍋に放り込まれることになった。
こうして、右往左往した結果、試食してみると、いつもよりも味がしっかりとしていることに気がついた。当然のことと言えば、それまでである。ドライトマトという新しい食材が加わったからだ。しかし、最初から組み合わせていたら考えもしなかったことかもしれないが、僕にとっては、これは、一つの発見だった。トマトの缶詰だけでなく、ドライトマトだけでもない。組み合わせたトマトがおいしいのだ。
・・・・・
この発見は、僕にいろいろなことを教えてくれることになった。
その結果、僕がカレーと作る時には、複数の種類のトマトは欠かすことのできないものとなった。
・・・・・
先日、あるテレビ番組を見ていると、こんなコメントがあった。
「人間は、体の中に取り入れた食物を分子レベルの小さな単位にしてから味わう・・・」
たしかに、舌で味を感じるのは、舌の表面にある『味蕾(みらい)』という細胞の仕事だ。味蕾のところに、複数のトマトが刺激が与えわれれば、細胞からの刺激が脳に伝わった時、脳は、過去の記憶と照らし合わせながら、一つに定まろうとしない味の変化にバタバタしているのだろう。味の深みとは、こうして生まれるように思われる。
さまざまな野菜を使ったソースがおいしいのも、それと同じ理由ではないだろうか?
・・・・・
分子レベルでの融合。
このことは、トマトの水耕栽培の話を聞いたときにも、妙に納得したことだ。
一定の比率で作られる溶液は、トマトの生育に必要なものを混ぜ合わせて作られる。机上の理屈からすれば、トマトの生育に最適なものを準備した上で、栽培するのだから、おいしいものができて当然のように思われる。ところが、友人は、「トマトを水耕栽培すると、味が単調になる」と言った。
この友人の発言を僕は強く支持する。
この畑で作られたトマトは、どれも味が均一になってしまう可能性があり、その結果、このようなトマトだけを使っても、味は、均一であっても、深みがなくなってしまうのではないだろうか?
・・・・・
うーん。なんとなく力説してきたなあ。
・・・・・
さて、ようやくカレーの話に戻る。
友人から貰ったたくさんのトマト。ここに別のトマトを足して使うのか?
実は、最近、それをしていない。
友人のトマトを食べるようになって、深い味のするトマトが、それだけで何種類ものトマトにも勝るとも劣らない味わいであることを僕は学んだから、別の種類のトマトを足すなんて、恐ろしいとさえ思う。
いつか試してみたいという誘惑はある。
禁断の世界に足を踏み入れれば、戻って来れなくなるかもしれない。
でも、このトマトが食べれる間は、このトマトそのものが持つ味の深みを堪能していたいのも、正直な気持ちだ。
・・・
さて、そろそろカレーの具合を確かめないと、ずいぶんと煮込んでいる。
良い味が出てきている頃だと思う。
2005年11月13日日曜日
トマト・カレー
今日の夜は、おにいが持ってきてくれたトマトを調理することにした。
おにいは、友人の3人のこどものうち、一番上の長男で、今年20歳になった。
おにいは、僕が作るカレーの支持者なので、このトマトは、カレーを作るために持ってきてくれたのだ。
そして、言うまでもないことだが、このトマトは、友人のハウスで栽培されたもので、たぶん、今年最後の収穫になるだろう。
うーん。ありがたい。
トマトは、見た目に痛んだものもあるが、スーパーのカゴのような大きさのカゴに軽く一杯分。
さすがに、これだけあると、すこしばかりプレッシャーを感じる。
これまでの人生の中で、何度となく作ってきているカレーだが、友人のトマトを使ってカレーを作るようになって、一つだけ大きく変わったことがある。それは、トマトの割合をかつてなかったほどに多くしたこと。だから、僕は、このカレーのことを『トマト・カレー』と呼んでいる。
この『トマト・カレー』は、友人のトマトとの出会いがなかったら、僕には思いつかなかっただろう。
このトマトとの出会いのくだりについては、いつか、このブログで書くこともあるだろう。
いずれにせよ、僕にとって、この『トマト・カレー』は、それなりに思い入れのある料理なのだ。
・・・・・
さて、今年最後の大量のトマト。
おにいの期待に応えるためにも、おいしい『トマト・カレー』を作りたい。
うーん。しかし、この晩秋に収穫したトマトは、夏場のトマトとは違うはずだ。
うーん。どんな風に違うんだろう?
・・・・・
話は、それる。
このトマトを初めて食べた時、僕は、幼少の頃、祖母が食べさせてくれたトマトのような深い味わいに懐かしいモノを感じた。幼い頃の記憶なのに、それを思い出させたのは、野菜そのもの味がしたからではないか、と考えている。
友人の作るトマトは、鷹峯界隈では有名である。
地元のおばさまたちは、トマトができる季節になると、友人のおかあさんが『振り売り』に出掛けるのを待ちきれず、友人の家の作業場へと繋がる路地にまでやってくるほどである。大八車に並べられたトマトを取っては、自分の前に山積みにして、おかあさんの勘定を順番待ちする。この光景は、僕には、友人の家の回りで見かける風物詩となった。
最近は、フルーツ・トマトのように糖度の高いトマトをお店で買うことができるが、友人の作るトマトは、フルーツ・トマトに負けないくらい糖度が高い。そのうえ、はち切れそうなほどたくさんの果汁を含んでいるので、単純に濃厚という表現では不十分だと思う。
理由はこうだ。果汁が100%と言って売っているジュースならば、10%果汁のジュースに比べて濃厚というのは道理だけれど、果物そのものを比較するときは、濃縮したりしている訳ではないから、トマトの味が濃厚というのは。おかしい、ということになる。うーん。へ理屈の天才だなあ。まあ、僕が思うのは、友人のトマトとスーパーに並ぶトマトとの味の違いはなんだろう?ということ。つまり、片方にはあって、片方にはない成分があるんじゃないか、と思うから、同じものを煮詰めて濃縮させても含まれていない味の違いがあるように思う。
トマトに限らず、多くの野菜は、同じ畑で繰り返し栽培できないそうだ。これは、「連作障害」と言うそうだ。同じ畑で、繰り返して同じ野菜を栽培すると、その野菜に害を与える細菌や虫が大量に発生しやすくなり、野菜の生長に悪影響を与えるためだ。だから、トマトなどは、「連作障害」を避けるために、「水耕栽培」と言って、土を使わずに養分を含む水の中で栽培する方法が研究されている。実際、市場に出回っているトマトの中には、「水耕栽培」で作られているものもあるようだ。
この話を友人に聞いてみると、あまり芳しくない反応が返ってきた。友人の話だと、「水耕栽培」では、単調な味わいのトマトしかできないそうだ。友人が言うには、土に含まれるさまざまな成分が、トマトの味わいを深くするので、「連作障害」を避けながらでも、土の上で栽培した方が良い、とのことである。
ずいぶんと説明が長くなったが、僕が感じた友人のトマトとスーパーに並んでいたトマトとの味の違いは、そこら辺りに原因があるように思う。
・・・
話は、トマトからもそれる。
友人はいくつかの畑を持っている。ある日のこと、市内の料理屋さんに頼まれたホウレンソウを収穫するのに、僕は、友人といくつかの畑を回った。同じ畑に植えられ、畑の端とその反対側の端にあったホウレンソウを収穫しながら、友人は言った。
「こっちのホウレンソウを食べてみて。・・・・次に、こっちのホウレンソウを食べてみて」
同じ畑に育ったにもかかわらず、ホウレンソウの味が違っていた。
次に向かった畑でも、
「このホウレンソウを食べてみて」
畑が違えば、当然味も違った。
更に、別の畑に向かって移動する軽トラの中で、友人が教えてくれた。
「同じ品種なのに、味が違うことをわかってくれた」
うーん。うーん。
味覚ではわかっているのだから、疑いようのない事実なのに、僕の頭は混乱していた。
どれもおいしいホウレンソウだった。でも、確かに味が違った。
そう。僕は、ホウレンソウの味をどれも同じように錯覚していた。
・・・・・
大きな畑で緻密な生産管理をしていれば、この差は生じないのか?
厳密に調整された溶液の中で育てられたトマトだったら、どれも同じ味のトマトになるのか?
・・・・・
友人は言った。
「土地が違えば、土に含まれる成分が変わるから味も変わる。」
なるほど。最初の場所と次の場所では、味が違ったことには納得がいく。ん?でも、最初の場所の2つのホウレンソウの味は違っていた。僕は、この疑問を友人にぶつけた。
「畑の向こう側に沢があったのを覚えてる?」
ふーむ。
友人の畑は、決して大きな畑ではない。もちろん、農家としてやっているので、個人が園芸をするような畑でもない。また、京都という場所柄を考えれば、北海道にあるような広大な畑などあり得ない。友人の畑は、東側に少し離れてはいるが山際があり、西側に小さな沢が流れている。
あ。
そう、それが答えだった。風は山と沢の間を行ったり来たりする。この差が、同じ畑にあったホウレンソウの味を変える原因になったかもしれない。たしかに、夜にあの畑に行くと、沢からあふれてくる冷気をひんやりと感じることがある。うーん。勿論、それ以外の要因も考えられるかもしれない。ちょっとした地形の勾配が、肥料を施しても雨が降って流れることで、ホウレンソウに与える差となったかもしれない。深い、深いぞ。野菜づくり。
・・・・・
トマトの皮むきをしながら、僕は思った。
まあ、少しくらい味が変わっても仕方ないか。
ここに来て同じものを量産することの難しさを痛感する。
おにいは、友人の3人のこどものうち、一番上の長男で、今年20歳になった。
おにいは、僕が作るカレーの支持者なので、このトマトは、カレーを作るために持ってきてくれたのだ。
そして、言うまでもないことだが、このトマトは、友人のハウスで栽培されたもので、たぶん、今年最後の収穫になるだろう。
うーん。ありがたい。
トマトは、見た目に痛んだものもあるが、スーパーのカゴのような大きさのカゴに軽く一杯分。
さすがに、これだけあると、すこしばかりプレッシャーを感じる。
これまでの人生の中で、何度となく作ってきているカレーだが、友人のトマトを使ってカレーを作るようになって、一つだけ大きく変わったことがある。それは、トマトの割合をかつてなかったほどに多くしたこと。だから、僕は、このカレーのことを『トマト・カレー』と呼んでいる。
この『トマト・カレー』は、友人のトマトとの出会いがなかったら、僕には思いつかなかっただろう。
このトマトとの出会いのくだりについては、いつか、このブログで書くこともあるだろう。
いずれにせよ、僕にとって、この『トマト・カレー』は、それなりに思い入れのある料理なのだ。
・・・・・
さて、今年最後の大量のトマト。
おにいの期待に応えるためにも、おいしい『トマト・カレー』を作りたい。
うーん。しかし、この晩秋に収穫したトマトは、夏場のトマトとは違うはずだ。
うーん。どんな風に違うんだろう?
・・・・・
話は、それる。
このトマトを初めて食べた時、僕は、幼少の頃、祖母が食べさせてくれたトマトのような深い味わいに懐かしいモノを感じた。幼い頃の記憶なのに、それを思い出させたのは、野菜そのもの味がしたからではないか、と考えている。
友人の作るトマトは、鷹峯界隈では有名である。
地元のおばさまたちは、トマトができる季節になると、友人のおかあさんが『振り売り』に出掛けるのを待ちきれず、友人の家の作業場へと繋がる路地にまでやってくるほどである。大八車に並べられたトマトを取っては、自分の前に山積みにして、おかあさんの勘定を順番待ちする。この光景は、僕には、友人の家の回りで見かける風物詩となった。
最近は、フルーツ・トマトのように糖度の高いトマトをお店で買うことができるが、友人の作るトマトは、フルーツ・トマトに負けないくらい糖度が高い。そのうえ、はち切れそうなほどたくさんの果汁を含んでいるので、単純に濃厚という表現では不十分だと思う。
理由はこうだ。果汁が100%と言って売っているジュースならば、10%果汁のジュースに比べて濃厚というのは道理だけれど、果物そのものを比較するときは、濃縮したりしている訳ではないから、トマトの味が濃厚というのは。おかしい、ということになる。うーん。へ理屈の天才だなあ。まあ、僕が思うのは、友人のトマトとスーパーに並ぶトマトとの味の違いはなんだろう?ということ。つまり、片方にはあって、片方にはない成分があるんじゃないか、と思うから、同じものを煮詰めて濃縮させても含まれていない味の違いがあるように思う。
トマトに限らず、多くの野菜は、同じ畑で繰り返し栽培できないそうだ。これは、「連作障害」と言うそうだ。同じ畑で、繰り返して同じ野菜を栽培すると、その野菜に害を与える細菌や虫が大量に発生しやすくなり、野菜の生長に悪影響を与えるためだ。だから、トマトなどは、「連作障害」を避けるために、「水耕栽培」と言って、土を使わずに養分を含む水の中で栽培する方法が研究されている。実際、市場に出回っているトマトの中には、「水耕栽培」で作られているものもあるようだ。
この話を友人に聞いてみると、あまり芳しくない反応が返ってきた。友人の話だと、「水耕栽培」では、単調な味わいのトマトしかできないそうだ。友人が言うには、土に含まれるさまざまな成分が、トマトの味わいを深くするので、「連作障害」を避けながらでも、土の上で栽培した方が良い、とのことである。
ずいぶんと説明が長くなったが、僕が感じた友人のトマトとスーパーに並んでいたトマトとの味の違いは、そこら辺りに原因があるように思う。
・・・
話は、トマトからもそれる。
友人はいくつかの畑を持っている。ある日のこと、市内の料理屋さんに頼まれたホウレンソウを収穫するのに、僕は、友人といくつかの畑を回った。同じ畑に植えられ、畑の端とその反対側の端にあったホウレンソウを収穫しながら、友人は言った。
「こっちのホウレンソウを食べてみて。・・・・次に、こっちのホウレンソウを食べてみて」
同じ畑に育ったにもかかわらず、ホウレンソウの味が違っていた。
次に向かった畑でも、
「このホウレンソウを食べてみて」
畑が違えば、当然味も違った。
更に、別の畑に向かって移動する軽トラの中で、友人が教えてくれた。
「同じ品種なのに、味が違うことをわかってくれた」
うーん。うーん。
味覚ではわかっているのだから、疑いようのない事実なのに、僕の頭は混乱していた。
どれもおいしいホウレンソウだった。でも、確かに味が違った。
そう。僕は、ホウレンソウの味をどれも同じように錯覚していた。
・・・・・
大きな畑で緻密な生産管理をしていれば、この差は生じないのか?
厳密に調整された溶液の中で育てられたトマトだったら、どれも同じ味のトマトになるのか?
・・・・・
友人は言った。
「土地が違えば、土に含まれる成分が変わるから味も変わる。」
なるほど。最初の場所と次の場所では、味が違ったことには納得がいく。ん?でも、最初の場所の2つのホウレンソウの味は違っていた。僕は、この疑問を友人にぶつけた。
「畑の向こう側に沢があったのを覚えてる?」
ふーむ。
友人の畑は、決して大きな畑ではない。もちろん、農家としてやっているので、個人が園芸をするような畑でもない。また、京都という場所柄を考えれば、北海道にあるような広大な畑などあり得ない。友人の畑は、東側に少し離れてはいるが山際があり、西側に小さな沢が流れている。
あ。
そう、それが答えだった。風は山と沢の間を行ったり来たりする。この差が、同じ畑にあったホウレンソウの味を変える原因になったかもしれない。たしかに、夜にあの畑に行くと、沢からあふれてくる冷気をひんやりと感じることがある。うーん。勿論、それ以外の要因も考えられるかもしれない。ちょっとした地形の勾配が、肥料を施しても雨が降って流れることで、ホウレンソウに与える差となったかもしれない。深い、深いぞ。野菜づくり。
・・・・・
トマトの皮むきをしながら、僕は思った。
まあ、少しくらい味が変わっても仕方ないか。
ここに来て同じものを量産することの難しさを痛感する。
からみそば(からみ大根の続き)
鷹峯界隈の木々もすっかり色付いてきた。そこで、散歩に出掛けた。
目的は、光悦寺の門前へと続く小路に折り重なるような枝振りが見事な紅葉。この季節に見逃すのはもったいない。そう思って、鷹峯街道の緩やかな坂道をてくてくと歩きはじめた。
光悦寺の一番近くにある信号機のところまで来ると、柱に、「一般客の拝観お断り」の紙が貼られていた。どうも、光悦寺ではなにかの催しをやっている様子だ。
うーん。立ち止まって考えてみたが、何もひらめくものがなかった。
せっかくだから、少しでも紅葉を見れないかと思って、そのまま光悦寺に向かって足を進めたが、門前の通りに連なっているたくさんのタクシーには失せるものがあった。
自宅から歩いた距離にしてみれば、たいしたことはない。それでも、引き返すにはなんとなく口惜しい気がしたので、光悦寺の門前に未練がましく立ち尽くして辺りの様子を眺めていた。すると、和装にめかしこんだ方々が次々と出てきて、週末の昼下がりに紅葉を楽しむ風情とはずいぶんと異なるように思えた。
さきほどの張り紙を見たときは、ずいぶんとぶっきらぼうな印象を受けたが、ここに来て、「なるほど」と、飲み込むものがあった。
お、そうだ。
先日、『からみ大根』の話を書いたこともあって、『光悦茶屋』の『からみそば』を食べに行くことにした。
光悦寺から100メートルと離れていないから、ここから向かうとすれば、すこし得した気分だ。
うーん。僕は、単純すぎるのだろうか。
店に入ってみると、今日は心無しか人が少ないように見える。
『光悦茶屋』は、『光悦寺』や『源光庵』を訪れる観光客でいっぱいなので、ついつい足が遠のいていたが、ははーん。観光客は、光悦寺のところで引き返したのか?お客が少ないというのは、お店の方には申し訳ないが、客の側からすると、落ち着ける感じがする。
さてさて、席を陣取って、『からみそば』と『焼きおにぎり』を注文することにした。
間もなく、温かな汁そばに『からみ大根』をおろしたものがのせられてやってきた。
『からみそば』の具は、『からみ大根』だけである。シンプルといえば、シンプル。
『光悦茶屋』ではないのだが、夏場に食べた『からみ大根』は、おろした状態で、ざるそばの薬味として添えられていた。それをつけ汁にいれ、そばにからまる『からみ大根』を食べていた。そばにからんだ『からみ大根』は、そばを噛む度にぴりっとしたアクセントになって、食べ終わると、冷たいそばを食べたはずなのにほかほかするという、不思議な感じがした。
温かなそばの場合は、どうだろう?
まず、一口汁を飲んでみると、ややあっさりとした感じの味がした。そばの上の『からみ大根』がこぼれないように持ち上げてズズッとやる。細めの麺は、ゆでるとすこし柔らかく感じるが、『からみ大根』のきりっとした味わいにからまると、なかなかいい案配になる。あっさりとした汁を麺を食べる合間に流し込むと、余分なものがない、という印象だ。
食べ始めは、あっさりとした汁が、麺をほとんど食べ終わる頃には、『からみ大根』が汁の熱を貰って甘くなってきて、すこし趣きが異なってくる。これはなかなか良い。
いやあ。これから冷え込みがきつくなって、『からみ大根』の辛さに甘みが加わってくると、どうなってくるんだろう?
うーん。たのしみ、たのしみ。
すっかり満足して、店を出た。
傾き始めた太陽に風もすこし肌寒い感じなのだが、体はほかほかだ。
さて、どこに向かおう。もう少し足をのばせば、この辺りだと自生している紅葉を楽しむこともできる。
すこし遠回りしてから帰ることにした。
目的は、光悦寺の門前へと続く小路に折り重なるような枝振りが見事な紅葉。この季節に見逃すのはもったいない。そう思って、鷹峯街道の緩やかな坂道をてくてくと歩きはじめた。
光悦寺の一番近くにある信号機のところまで来ると、柱に、「一般客の拝観お断り」の紙が貼られていた。どうも、光悦寺ではなにかの催しをやっている様子だ。
うーん。立ち止まって考えてみたが、何もひらめくものがなかった。
せっかくだから、少しでも紅葉を見れないかと思って、そのまま光悦寺に向かって足を進めたが、門前の通りに連なっているたくさんのタクシーには失せるものがあった。
自宅から歩いた距離にしてみれば、たいしたことはない。それでも、引き返すにはなんとなく口惜しい気がしたので、光悦寺の門前に未練がましく立ち尽くして辺りの様子を眺めていた。すると、和装にめかしこんだ方々が次々と出てきて、週末の昼下がりに紅葉を楽しむ風情とはずいぶんと異なるように思えた。
さきほどの張り紙を見たときは、ずいぶんとぶっきらぼうな印象を受けたが、ここに来て、「なるほど」と、飲み込むものがあった。
お、そうだ。
先日、『からみ大根』の話を書いたこともあって、『光悦茶屋』の『からみそば』を食べに行くことにした。
光悦寺から100メートルと離れていないから、ここから向かうとすれば、すこし得した気分だ。
うーん。僕は、単純すぎるのだろうか。
店に入ってみると、今日は心無しか人が少ないように見える。
『光悦茶屋』は、『光悦寺』や『源光庵』を訪れる観光客でいっぱいなので、ついつい足が遠のいていたが、ははーん。観光客は、光悦寺のところで引き返したのか?お客が少ないというのは、お店の方には申し訳ないが、客の側からすると、落ち着ける感じがする。
さてさて、席を陣取って、『からみそば』と『焼きおにぎり』を注文することにした。
間もなく、温かな汁そばに『からみ大根』をおろしたものがのせられてやってきた。
『からみそば』の具は、『からみ大根』だけである。シンプルといえば、シンプル。
『光悦茶屋』ではないのだが、夏場に食べた『からみ大根』は、おろした状態で、ざるそばの薬味として添えられていた。それをつけ汁にいれ、そばにからまる『からみ大根』を食べていた。そばにからんだ『からみ大根』は、そばを噛む度にぴりっとしたアクセントになって、食べ終わると、冷たいそばを食べたはずなのにほかほかするという、不思議な感じがした。
温かなそばの場合は、どうだろう?
まず、一口汁を飲んでみると、ややあっさりとした感じの味がした。そばの上の『からみ大根』がこぼれないように持ち上げてズズッとやる。細めの麺は、ゆでるとすこし柔らかく感じるが、『からみ大根』のきりっとした味わいにからまると、なかなかいい案配になる。あっさりとした汁を麺を食べる合間に流し込むと、余分なものがない、という印象だ。
食べ始めは、あっさりとした汁が、麺をほとんど食べ終わる頃には、『からみ大根』が汁の熱を貰って甘くなってきて、すこし趣きが異なってくる。これはなかなか良い。
いやあ。これから冷え込みがきつくなって、『からみ大根』の辛さに甘みが加わってくると、どうなってくるんだろう?
うーん。たのしみ、たのしみ。
すっかり満足して、店を出た。
傾き始めた太陽に風もすこし肌寒い感じなのだが、体はほかほかだ。
さて、どこに向かおう。もう少し足をのばせば、この辺りだと自生している紅葉を楽しむこともできる。
すこし遠回りしてから帰ることにした。
白苺(しろいちご)
街中でケーキ屋さんの前を通ると、今でも、苺のショートケーキが輝いて見えますか?
アンケートをとるまでもないだろう。
僕の思い込みだけでいえば、苺のショートケーキは、多くの人にとって禁断の果実のような存在ではないだろうか?なかでも、ショートケーキの頂上に鎮座する大粒の苺は、銀座の百貨店の豪華なショーケースに並ぶ宝石!?とはいかないまでも、垂涎の対象であることは間違いないと思う。
うーん。想像しただけで食べたくなってきた。
イチゴ、苺、いちご・・・。
こどもの頃は、苺といえば、手頃な小皿の上に苺を積み上げて、甘いコンデンスミルクをかけてもらって食べるのが当たり前だった。なんとも言えない苺のほどよい酸味が口の中でミルクと混ざり合って、濃厚な味覚がのど元を通り過ぎていった。
こどもの頃は、これほどの至福の瞬間はほかに思いつかない、と思っていた。
月日が流れ、夜の遅い時間にお肉を食べるとお腹がもたれる・・・なんてことが気になる始めるようになると、苺の甘さよりも、甘ったるさそのものが気になってきて、どうしたものか?と思うようになった。
ふと、人生は空しいと思う。
さて、友人の家でも、苺を作っている。
この苺は、実に危険な存在だ。友人も、この苺のおいしさが自慢のようすだ。去年は、苺の写真を使って名刺を作って欲しい、と頼まれたほどの入れ込み方だ。でも、それもうなづけるほど、この苺がおいしい。
友人の家では、ハウス栽培で苺を作っている。
苺は、苗を植えるとずいぶんと長い間、実をつける。春先に出回る露地栽培の苺は、その土地の風土にあった品種があり、自然の恵みを十分に貰ったおいしい苺となる。
もっとも、これからの季節に苺を作ることは一苦労だ。
朝夕には、ハウスの両側のビニールを上げ下げするなどして温度管理をしたりする。夜には、一定時間、電気を点けてあげたりするなどして日照時間を長くしてやる。ほかにも、実に細かい作業がたくさんある。
・・・・・
初めて、友人が苺を栽培しているハウスに連れて行ってくれた時のこと。友人は、適当に苺を摘んで、その中から一つを僕に渡した。
「食べてみて」
口に放り込んでみると、すぐさま、ドッと押し寄せるものがあった。
自分の唾液だ。
苺が甘い。
コンデンスミルクをかけていた時の苺を思い出してみようとするが、もう思い出せなくなってしまった。
コンデンスミルクをかけた苺の甘さは、結局は、人工的な甘さなのか?完敗だと思った。
単調な甘さじゃないのが、深い味わいを作るのだと思う。
友人は、もう一つの苺を渡してくれた。
先ほどの苺より、熟して真っ赤になっている。緑色のヘタの際まで赤くなっていた。
ほんのわずかな違いだと思った。でも、旨さは決定的だった。最初の苺の方が美味い。
・・・・・
今年は、僕の家の隣にあるハウスで苺を作るらしい。
白い小さな花が咲き、小粒な白い苺の実がなり始めている。
ほどよく大きくなった苺の実が赤くなる前の頃。僕は、この状態の苺を「白苺(しろいちご)」と呼んでいる。
甘さよりも、酸味がやや強いのだが、友人の作る苺の場合、このくらいの方が僕にはちょうどいい。
勿論、赤い苺が嫌いな訳じゃない。でも、食べ過ぎてしまうと、なにかと怖いものがある。
白苺は、たくさん食べれる代物ではないかもしれないが、一粒でも苺のショートケーキの上に乗っかった大粒の赤い苺と遜色のない魅力を持っている。
・・・と、僕は思う。
アンケートをとるまでもないだろう。
僕の思い込みだけでいえば、苺のショートケーキは、多くの人にとって禁断の果実のような存在ではないだろうか?なかでも、ショートケーキの頂上に鎮座する大粒の苺は、銀座の百貨店の豪華なショーケースに並ぶ宝石!?とはいかないまでも、垂涎の対象であることは間違いないと思う。
うーん。想像しただけで食べたくなってきた。
イチゴ、苺、いちご・・・。
こどもの頃は、苺といえば、手頃な小皿の上に苺を積み上げて、甘いコンデンスミルクをかけてもらって食べるのが当たり前だった。なんとも言えない苺のほどよい酸味が口の中でミルクと混ざり合って、濃厚な味覚がのど元を通り過ぎていった。
こどもの頃は、これほどの至福の瞬間はほかに思いつかない、と思っていた。
月日が流れ、夜の遅い時間にお肉を食べるとお腹がもたれる・・・なんてことが気になる始めるようになると、苺の甘さよりも、甘ったるさそのものが気になってきて、どうしたものか?と思うようになった。
ふと、人生は空しいと思う。
さて、友人の家でも、苺を作っている。
この苺は、実に危険な存在だ。友人も、この苺のおいしさが自慢のようすだ。去年は、苺の写真を使って名刺を作って欲しい、と頼まれたほどの入れ込み方だ。でも、それもうなづけるほど、この苺がおいしい。
友人の家では、ハウス栽培で苺を作っている。
苺は、苗を植えるとずいぶんと長い間、実をつける。春先に出回る露地栽培の苺は、その土地の風土にあった品種があり、自然の恵みを十分に貰ったおいしい苺となる。
もっとも、これからの季節に苺を作ることは一苦労だ。
朝夕には、ハウスの両側のビニールを上げ下げするなどして温度管理をしたりする。夜には、一定時間、電気を点けてあげたりするなどして日照時間を長くしてやる。ほかにも、実に細かい作業がたくさんある。
・・・・・
初めて、友人が苺を栽培しているハウスに連れて行ってくれた時のこと。友人は、適当に苺を摘んで、その中から一つを僕に渡した。
「食べてみて」
口に放り込んでみると、すぐさま、ドッと押し寄せるものがあった。
自分の唾液だ。
苺が甘い。
コンデンスミルクをかけていた時の苺を思い出してみようとするが、もう思い出せなくなってしまった。
コンデンスミルクをかけた苺の甘さは、結局は、人工的な甘さなのか?完敗だと思った。
単調な甘さじゃないのが、深い味わいを作るのだと思う。
友人は、もう一つの苺を渡してくれた。
先ほどの苺より、熟して真っ赤になっている。緑色のヘタの際まで赤くなっていた。
ほんのわずかな違いだと思った。でも、旨さは決定的だった。最初の苺の方が美味い。
・・・・・
今年は、僕の家の隣にあるハウスで苺を作るらしい。
白い小さな花が咲き、小粒な白い苺の実がなり始めている。
ほどよく大きくなった苺の実が赤くなる前の頃。僕は、この状態の苺を「白苺(しろいちご)」と呼んでいる。
甘さよりも、酸味がやや強いのだが、友人の作る苺の場合、このくらいの方が僕にはちょうどいい。
勿論、赤い苺が嫌いな訳じゃない。でも、食べ過ぎてしまうと、なにかと怖いものがある。
白苺は、たくさん食べれる代物ではないかもしれないが、一粒でも苺のショートケーキの上に乗っかった大粒の赤い苺と遜色のない魅力を持っている。
・・・と、僕は思う。
光悦村
昨日の雨は上がって、今日は、遠くに鳥のさえずりが聞こえる。
なんだか気持ちがいい。
京都に引っ越してくる前は、東京の高円寺に住んでいた。
住んでいたマンションは、目の前に環状7号線が走っていて、夏の暑い日には光化学スモッグの注意報が出るようなところだった。
今の生活環境とは、ずいぶんと違う。
今、住んでいるこの場所は、鷹峯(たかがみね)というところで、かつては、光悦村と呼ばれていたところだ。この光悦とは、安土桃山から江戸時代初期にかけて活躍したマルチ芸術家、本阿弥光悦という人の名前に由来している・・・らしい。
この本阿弥光悦の話は、いずれすることとして。
その流れを汲むのか?
今でも、この辺りにはさまざまな才能を持つ人たちが暮らしている。
と、こんな清々しい日の朝を一変させてしまう才能の持ち主、友人の声が聞こえた。かくして、僕は、現実に引き戻される。
そう、雨が上がれば、農作業ができる。
友人は、いくつもの農機具をトラックに積み込んで、少し離れたところにある畑に移動するのだろう。
大きな声で家族に準備をするようにと急かしている。
この季節、大根やカブラの収穫が始まっている。
大根やカブラのような根野菜は、ホウレンソウや水菜のような葉野菜と異なって、そのひとつひとつが重いから、収穫も大変な重労働だ。もちろん、白菜やキャベツのようにしっかりとしたものもある。しかし、鈍く光った粘土質の土から引き上げる根野菜は、収穫後に野菜についた土を洗い流すという作業が待っている。だから、ノンビリして作業をしていたら、あっという間に日が暮れてしまう。
実際、根野菜の収穫期間は、友人の家では、泥のついた根野菜を真っ白になるまで洗う作業が、毎日の日課になっている。そして、その作業は、収穫量に応じて時間がかかり、遅くなると深夜にまでなってしまう。
まあ、そういう事情もあって、友人は、慌ただしく動いている。
ガタガタガタ。ガタガタガタ。
大きなかごをトラックに投げ込むと、そのまま運転席に飛び乗り、エンジンをかけるとすぐさま出て行っしまった。
うーん。
光悦村に静寂が戻ってきた。
そう。ここは、さまざまな才能を持つ人が暮らす処。
なんだか気持ちがいい。
京都に引っ越してくる前は、東京の高円寺に住んでいた。
住んでいたマンションは、目の前に環状7号線が走っていて、夏の暑い日には光化学スモッグの注意報が出るようなところだった。
今の生活環境とは、ずいぶんと違う。
今、住んでいるこの場所は、鷹峯(たかがみね)というところで、かつては、光悦村と呼ばれていたところだ。この光悦とは、安土桃山から江戸時代初期にかけて活躍したマルチ芸術家、本阿弥光悦という人の名前に由来している・・・らしい。
この本阿弥光悦の話は、いずれすることとして。
その流れを汲むのか?
今でも、この辺りにはさまざまな才能を持つ人たちが暮らしている。
と、こんな清々しい日の朝を一変させてしまう才能の持ち主、友人の声が聞こえた。かくして、僕は、現実に引き戻される。
そう、雨が上がれば、農作業ができる。
友人は、いくつもの農機具をトラックに積み込んで、少し離れたところにある畑に移動するのだろう。
大きな声で家族に準備をするようにと急かしている。
この季節、大根やカブラの収穫が始まっている。
大根やカブラのような根野菜は、ホウレンソウや水菜のような葉野菜と異なって、そのひとつひとつが重いから、収穫も大変な重労働だ。もちろん、白菜やキャベツのようにしっかりとしたものもある。しかし、鈍く光った粘土質の土から引き上げる根野菜は、収穫後に野菜についた土を洗い流すという作業が待っている。だから、ノンビリして作業をしていたら、あっという間に日が暮れてしまう。
実際、根野菜の収穫期間は、友人の家では、泥のついた根野菜を真っ白になるまで洗う作業が、毎日の日課になっている。そして、その作業は、収穫量に応じて時間がかかり、遅くなると深夜にまでなってしまう。
まあ、そういう事情もあって、友人は、慌ただしく動いている。
ガタガタガタ。ガタガタガタ。
大きなかごをトラックに投げ込むと、そのまま運転席に飛び乗り、エンジンをかけるとすぐさま出て行っしまった。
うーん。
光悦村に静寂が戻ってきた。
そう。ここは、さまざまな才能を持つ人が暮らす処。
2005年11月12日土曜日
からみ大根
これから寒くなる季節。野菜を楽しむには絶好の季節だと思う。
京都は、盆地ということもあって夏冬の温度差、昼夜の温度差がとても大きい。
この温度差がさまざまな野菜の甘さを引き出す大切な役割を果たす。
大根やカブラといった根菜類は、体を温かくしてくれる効果があり、鍋物にしても、煮物にしても、とてもおいしい。
とは言え、この季節。あっという間に日が暮れる。
そして、日が暮れると、急に寒くなる。
寒くなったからと言って作業量が減る訳ではない。
むしろ、この季節の方が、旬の野菜が多いので気が抜けない。
野菜づくりに励む友人(農家)を見ていると、つくづく大変な作業だなあ、と思う。
農家を営む友人は、既に50歳を過ぎているが、こどもたちが成人を迎えるまでは、なんとかしなければ、と毎日精を出している。友人は、まさに畑で格闘している。
日が暮れると、ヘッドライトを付けて暗闇の中で荒い息で作業する。(少し怖い)
・・・・・
京都府では、ブランドとして『京野菜』という言葉が使われている。
最近では、京都で作っていないのに、『京野菜』というのが出回ることもあるらしい。
この辺りの解釈は、今後、いろいろと話をしたいと思うが、長くなるので今回は、パス。
・・・・・
新そばの季節。この友人に連れられて近所のそば屋に行った。
勿論、農作業を中断してからのお昼ご飯である。
少し疲れ気味だった僕は、あっさりとしたものをと思ってそばを取った。
そばの薬味として出された『からみ大根』を見て、話が始まった。
京都の北区にある今宮神社周辺のそば屋では、薬味として『からみ大根』が使われることが多い。
今宮神社で豊作を祝うお祭りには、必ず、『からみ大根』が奉納されるらしい。
もともと、『からみ大根』の種は、今宮神社が管理しているそうで、栽培には、まず、神社に問い合わせる必要があるらしい。
少なくとも、一般的な種苗店では入手できないそうだ。
このくだりは、友人からの伝承なのだが、友人は、僕がそば好きと聞いて、「この『からみ大根』をぜひ食べてみて、」とすすめてくれた。
「この季節に大根があるんだあ・・・」と思いながらも、新そばの香りを楽しみながら、ずるっ。
そばの味を邪魔しないところに、ちょっと間を置いて辛みがやってきた。
ピリピリっ。辛いのに、その辛さの中に甘さを感じる独特の風味がある。
この微妙な甘さは、どのようにして培われるのだろう?と思いながら、そばを食べる。
ずるっ。ずるずるるぅ。はあぁ。
食べ終えると、辛みがいっぱいだったが、一気に疲れがとれていった。
いやあ、『京野菜』として指定されているかどうかは知らないが、これはいい。
友人は、その様子を見ているだけで満足した様子だった。
ん?なんだか変だぞ。
なぜ、新そばの季節に『からみ大根』が食べれるんだ?
ハウス栽培が行われるためか?
まあいい。おいしい野菜を食べたことには間違いない。
冬の寒い季節に食べると、もっと甘みを感じることができるんだろうか?
この『からみ大根』のおろしとを大きめのカブラのおろしたものとを混ぜて食べてみたい。
なにが良いだろう?鍋か?それとも、やはり、そばか?
そばを食べ終えたばかりなのに、友人に聞いてみた。
「『からみ大根』は作っていないの?」
友人は意味ありげに笑って、「畑に戻ろう」と、僕を急き立てた。
京都は、盆地ということもあって夏冬の温度差、昼夜の温度差がとても大きい。
この温度差がさまざまな野菜の甘さを引き出す大切な役割を果たす。
大根やカブラといった根菜類は、体を温かくしてくれる効果があり、鍋物にしても、煮物にしても、とてもおいしい。
とは言え、この季節。あっという間に日が暮れる。
そして、日が暮れると、急に寒くなる。
寒くなったからと言って作業量が減る訳ではない。
むしろ、この季節の方が、旬の野菜が多いので気が抜けない。
野菜づくりに励む友人(農家)を見ていると、つくづく大変な作業だなあ、と思う。
農家を営む友人は、既に50歳を過ぎているが、こどもたちが成人を迎えるまでは、なんとかしなければ、と毎日精を出している。友人は、まさに畑で格闘している。
日が暮れると、ヘッドライトを付けて暗闇の中で荒い息で作業する。(少し怖い)
・・・・・
京都府では、ブランドとして『京野菜』という言葉が使われている。
最近では、京都で作っていないのに、『京野菜』というのが出回ることもあるらしい。
この辺りの解釈は、今後、いろいろと話をしたいと思うが、長くなるので今回は、パス。
・・・・・
新そばの季節。この友人に連れられて近所のそば屋に行った。
勿論、農作業を中断してからのお昼ご飯である。
少し疲れ気味だった僕は、あっさりとしたものをと思ってそばを取った。
そばの薬味として出された『からみ大根』を見て、話が始まった。
京都の北区にある今宮神社周辺のそば屋では、薬味として『からみ大根』が使われることが多い。
今宮神社で豊作を祝うお祭りには、必ず、『からみ大根』が奉納されるらしい。
もともと、『からみ大根』の種は、今宮神社が管理しているそうで、栽培には、まず、神社に問い合わせる必要があるらしい。
少なくとも、一般的な種苗店では入手できないそうだ。
このくだりは、友人からの伝承なのだが、友人は、僕がそば好きと聞いて、「この『からみ大根』をぜひ食べてみて、」とすすめてくれた。
「この季節に大根があるんだあ・・・」と思いながらも、新そばの香りを楽しみながら、ずるっ。
そばの味を邪魔しないところに、ちょっと間を置いて辛みがやってきた。
ピリピリっ。辛いのに、その辛さの中に甘さを感じる独特の風味がある。
この微妙な甘さは、どのようにして培われるのだろう?と思いながら、そばを食べる。
ずるっ。ずるずるるぅ。はあぁ。
食べ終えると、辛みがいっぱいだったが、一気に疲れがとれていった。
いやあ、『京野菜』として指定されているかどうかは知らないが、これはいい。
友人は、その様子を見ているだけで満足した様子だった。
ん?なんだか変だぞ。
なぜ、新そばの季節に『からみ大根』が食べれるんだ?
ハウス栽培が行われるためか?
まあいい。おいしい野菜を食べたことには間違いない。
冬の寒い季節に食べると、もっと甘みを感じることができるんだろうか?
この『からみ大根』のおろしとを大きめのカブラのおろしたものとを混ぜて食べてみたい。
なにが良いだろう?鍋か?それとも、やはり、そばか?
そばを食べ終えたばかりなのに、友人に聞いてみた。
「『からみ大根』は作っていないの?」
友人は意味ありげに笑って、「畑に戻ろう」と、僕を急き立てた。
登録:
コメント (Atom)